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VG槻輪
令和6年6月 活動予定

6月「わがまち紹介」
神社仏閣や地名から学ぶ歴史の"まち"
赤大路
鴨神社・子安神社・総持寺参拝

月    日 2024年6月13日(木)
集合場所 JR富田駅改札出口 集合
内容 鴨神社・子安神社・総持寺参拝
その他 1)小雨決行、中止の場合は前日に連絡網で連絡します
2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい

高鴨神社

高鴨神社(鴨・賀茂・加茂神社の総本社)
 高鴨神社は、奈良県御所市鴨神の金剛山東山麓にある神社です。 旧社格は県社となっています。
 京都府京都市の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社です。
葛木御歳神社(中鴨社)・鴨都波神社(下鴨社)に対して「上鴨社」と言われています。

鴨神社(赤大路)

鴨神社(赤大路)
 島下郡の旧社格の村社でした。
 島下郡は、大阪府(摂津国)にあった郡で嶋下郡と表記することもある。
 現在の祭神は下記の通りです。
  〇大山積命 (おおやまづみのみこと)
  〇伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
  〇伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
  〇鴨御祖大神 (かものみおやおおかみ)
 「安威川」と「淀川」の支流「芥川」のそのまた支流「女瀬川」の間の平地、高槻市「赤大路町」に鎮座する社です。
「安威川」までは1km近く、「女瀬川」までは2km近く離れています。
 当社サイトに見える創建由緒等に関して、以下のように記しています。
※ 赤大路町の『鴨神社』を創建したのは私たちのご先祖である鴨氏族(以下、通称「鴨族」と記します)です。
 その鴨族の先住民族は、紀元 前後に奈良県の葛城山にある高鴨神社を祀った鴨族でした。
 その一族が我が摂津国嶋下郡方面へ勢力を伸ばしてきたのです。
 その時期は、鴨族が神武天皇とともに卑弥呼を打倒した、少なくとも3世紀中期より前だと思われます。
 その当時の関西を鳥瞰しますと、今の大阪城がある位置は上町台地と言われる高台であって、その西側はすぐ海だったのです。
 その内陸部に5世紀頃までは大きな河内湖があって、その湖は奈良から旧大和川を始め、桂川、木津川、芥川、安威川、が注ぐ淀川とも連なり、その川の流れに沿って葛城の鴨族が、あるいは朝鮮半島から渡来した鴨族が直接、赤大路へ勢力を伸ばし、鴨林を拠点に拡大し始めたと思われます。

 ※平安時代末期には、後白河天皇中宮・建春門院が「三島神」に皇子誕生の祈願をしたと伝わる。
その結果のちの高倉天皇が誕生し、これを祝して京都五条坂に三島神社が創建されたという。

 ただし院の参詣先は「三島神」であり、これについても三島江の三島鴨神社とみる説がある。
 明治5年(1872年)、近代社格制度において村社に列した。
昭和46年(1971年)、本殿・拝殿が新築されました。

 

子安天満宮

子安天満宮(こやすてんまんぐう)
 当社は菅原道真公の側室、其の子及び公を祀っています。
 社伝によれば醍醐天皇の延喜元年(901)公の太宰府に左遷の時、側室が臨月であったが別れを惜しみ公の後を追ってこられ当地を過ぎる時に俄に産気を催したが人家に寄る隙もなく輿中に生まれ、待者倉輿を担いで民家に入ったが流血は輿中より洩れ道路が赤く染まったので、「赤大路」の地名が起った。
 同側室は産後の経過が悪く、ついに当地で死去された。
 その死期に臨み、里人の介抱を深く感謝し死後は婦人安産の神たらんと誓われたので、村人が社殿を建立し祀ったのが、当社の創建と伝えられている。
 現在の本殿、拝殿は昭和46年に新築された御社殿です。

総持寺


総持寺(そうじじ)
 総持寺とはどういう意味なのでしょうか、皆様の願いを総て持ち備えた仏様のお寺という意味でしょう。
 総持寺では、観音様の他、薬師如来、地蔵菩薩、不動明王、弘法大師、稲荷大明神、如来荒神など多くの仏様や神様が祀られています。
 総持寺は、大阪府茨木市総持寺にある高野山真言宗の寺院で、山号は補陀洛山(ふだらくさん)です。
 本尊は、千手観音。
 西国三十三所第22番札所。
 開基である藤原山蔭は四条流庖丁道という新たな庖丁式(料理作法)を定めたことから料理人の信仰を受けている。
当寺の草創説話は、助けた亀の恩返しと観音の霊験に関するもので、寺所蔵の縁起絵巻のほか、『今昔物語集』などでも見られます。
それによると、開基である藤原山蔭の父・藤原高房が、漁師たちが大亀を捕らえているのを見て「今日18日は観音様の縁日だから」と、亀を買い取って川へ逃がしてやった。
 その日の夜、山蔭が継母の計略で船から川に落とされてしまった。
高房はこれを悲しみ、観音に祈ったところ、高房が助けた亀が山蔭を甲羅に乗せて現れたという。
高房の没後、山蔭が報恩のため観音像を造立し祀ったのが当寺の起源だという。
寺伝では元慶3年(879年)頃、藤原山蔭が創建し、山蔭の三回忌の寛平2年(890年)に伽藍が完成したとする。
寺は天正年間(1573年〜1593年)に織田信長の兵火にかかって衰亡したが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼によって本堂が再建され、境内の復興が行われた。
※参考資料  わがまち紹介「補陀洛山総持寺」ガイドブックをご参照下さい。

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