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VG槻輪 11月「わがまち紹介」 |
月 日 | 2023年11月16日(木) | |||||||
集合場所 | 阪急西山天王山駅 東改札出口 集合 |
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内容 | 長岡京の西国街道の史跡見学・散策及び国の有形文化財「中野家住宅」・「旧石田家住宅」見学 |
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その他 |
1)雨天決行。中止の場合は前日に連絡網で連絡します 2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい 3) 有形文化財施設使用料等約300円/人 |
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記 長岡京市長岡京市は、豊かな水と緑に恵まれた良好な環境と大都市を結ぶ交通の利便性により発展してきたまちです。 古くは旧石器時代から人々が生活を営んだことがわかっており、特に784年に「長岡京」という当時のわが国の都が置かれた地として、全国的に知られています。 また、市内には史跡乙訓古墳群を構成する首長墓や、勝龍寺城などの城館跡、乙訓寺・長岡天満宮といった寺社など、数多くの文化遺産が存在し、現代に至るまで豊かな歴史と文化を守り育んできました。 昭和30年代後半からの急激な日本経済の成長にともない、京都と大阪の中間に位置し、宅地開発や工場の進出が相次ぎ、昭和45年には5万人を超え、昭和47年に市制を施行し「長岡京市」となりました。 神足(こうたり)の地名の由来 神足の名前の由来は、桓武天皇が奈良から長岡京に遷都した時に遡ります。 1200年前の話です。 桓武天皇が夢の中で、神が田村の地に降り立ち、宮中を襲う魔物を防いでいる様子を見ました。 目が覚めた後、家来を田村の地へ向かわせると、家来は神の姿を見たが、まばゆい姿のため、足しか見えませんでした。 それがキッカケに田村の地を「神足(こうたり)」と呼ぶようになり、それ以来、地名が神足になりました。 長岡京の西国街道 西国街道は、京都の東寺口から摂津西宮へ向かう街道です。全長は52 kmで、紀貫之の「土佐日記」にこの街道の様子が記されていることから、平安時代に造られたといわれています。 また豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、兵を送るために整備したことから「唐街道」とも呼ばれています。 その一部が長岡京市の一文橋から調子八角までの通りで、街道沿いには調子地区の「中野家住宅」や神足地区の「旧石田家住宅」をはじめ今も古い町並みが残っています。
西山天王山駅は、阪急電鉄京都線の駅です。 西山天王山駅は、2013年12月21日に開業しました。長岡京市と阪急電鉄では、京都縦貫自動車道の長岡京インターチェンジに隣接した箇所に新駅ならびに都市基盤施設を整備しています。 西山天王山の名前の由来は、山頂近くに位置する酒解神社が牛頭天王を祀ることがその名の由来です。 戦国時代の山崎の合戦が「天下分け目の天王山」だったことから有名な山になっています。 改札口は東西に2箇所あり、互いのホームは地下道で連絡している。駅舎は、和風を基調にしながらも現代風にアレンジしている。 また、高速道路の高架下という立地のため、駅舎正面はガラス張りとされ、外光をより多く採り入れられる構造となっています。 直上を走る京都縦貫自動車道には、当駅の開業に合わせて新たに「高速長岡京バスストップ」が設けられ、エレベーターを介して当駅の東口と連絡しています。
調子馬ノ池公園は、京都縦貫自動車道や阪急西山天王山駅の開業に伴い整備した公園です。 調子八角交差点の東側の高架下にある公園で、阪急西山天王山駅の東口から歩いてすぐの所です。 (1)馬ノ池 平安末期、近衛府の役人であった下毛野武正が関白のお供で四天王寺参りをした際、この池のほとりで落馬したという故事にちなんで「馬乗り池」「馬の池」と呼ばれるようになったといわれ、又、諸説ありますがその一説に、小倉神社の祭りの際に稚児を乗せる馬を清めたと伝えられており、それにちなみ「馬ノ池の水」と名付けられなど。 かって、この地には八角堂に寄進する田地があったので、八角と呼ばれるようになったそうです。 ため池:かつての馬ノ池を再現したため池があります。地下水100%の水道水供給施設やため池があります。また、高架下に位置しているため夏場でも涼しく、快適に過ごすことができます。 馬の銅像:長岡京市の友好都市である中国の寧波市から寄贈された馬の銅像があります。 中国に「馬到成功」ということわざがあり、名馬が来ると必ず事業が成功を収めるとされる縁起の良いものです。
硲遺跡は小泉川左岸の扇状地から段丘上に立地する弥生時代の集落遺跡。発掘調査により、竪穴住居や土坑、溝などが発見された。 小泉川左岸の扇状地から段丘状に広がった集落です。10数棟の竪穴式住居、土杭、溝などが確認されています。 見つかった土杭の中から、銅鐸土製品や舌型土製品が見つかっています。 また、石剣や石鏃なども出土しています。 土坑群の一つから、日本独自に発展した鐘のように音を鳴らす青銅器の銅鐸形土製品、骨や木の棒の舌形土製品が発見された。当時は祭祀に使用されたと思われます。 近くには三川合流地点があり、川を利用した交易もあったと考えられます。近くに集落もできて、一大集落へと発展していったことが伺えます。
中野家住宅は、調子地区の旧西国街道沿いに位置し古い街道筋の面影を今に伝えている貴重な建物として2010年9月に国の有形登録文化財に登録されました。 登録を受けた建物は、主屋・茶室・土蔵の3棟で主屋と土蔵は江戸末期、茶室は1951年に建てられたものです。 主屋は間口の広い敷地形状に近郊農家の特徴を備えるとともに江戸時代初めに西国街道沿いに形成された茶屋町にあった格子状の表構えや間取りに町屋としての特徴をあわせもっています。 戦後に施された屋敷全体の増改築には今日の町屋大工棟梁である北村傳兵衛が携わっており、茶室は傳兵衛によって建てられた現存する数少ない建物となっています。 なかの邸 なかの邸は、障がい者支援団体である「一般社団法人暮らしランプ」が運営しています。 2017年、長岡京市から中野家住宅を活用するプロポーザルに選ばれ、なかの邸のプロジェクトは始まりました。 一般的に障がい者の就労は、日中が多いのが現状です。 しかし、社会には障がいの特性や生活リズムなどの関係で、夜間に就労を希望しながら働く場所がない人たちがいます。 ※:調子地区、調子八角とは、「調子」はかつて平安時代にこの地域を治めていた地方豪族「調子氏」の一族に因む名のようです。 東の国(現在の銚子市)を支配していた下毛野氏の末裔が乙訓郡へ移り住み、藤原一族の家人として調子荘を開いたと言われています。 「八角」は、かつてこのあたりに「八角堂」があったと伝わっています。
この碑は、清誉浄佐なる人物が両親の供養のために、高野聖(高野山を拠点に諸国を廻り勧進する僧)を千人寄宿させたことを石碑に刻み、寛文八年(1668年)以降に建てたものとみられます。 地元では、この碑は「与市兵衛の墓」と長く伝えられてきました。 与市兵衛は、元禄赤穂事件(1702年)を題材とした「仮名手本忠臣蔵」に登場します。物語のなかで、与市兵衛は、婿早野勘平を主君の仇討の一員に加えるために娘お軽を祇園に身売りして工面したお金を持って山崎へ戻る途中、この地(横山峠)で山賊に殺されます。 この地は、かって木々が生い茂り、物語の舞台にふさわしい場所であったため、当時、根強い人気を誇った「仮名手本忠臣蔵」ゆかりの地として、語り継がれたのかもしれません。 西国街道沿いの立派な石碑。「高野聖寄宿供養名号碑」と呼ばれるものです。村に伝わる話では「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平の義父・与市兵衛の死を悼んだ供養塔といわれています。
歴史西国街道に面して建つこの住宅は、切妻造で三面に庇をまわし、表構えに格子と出格子を並べ、大屋根の下の白壁に2か所の虫籠窓(むしこまど)が開いています。 間口が広く田の字形の間取りは、京の町家と違い、農村風で独特の風情があります。 この住宅は、店舗と住まいを兼ねた町家で、町家独特の風情をもち、古い街道筋の面影を今に伝えています。 平成12年10月に規模が大きく、江戸時代末期の町家建築の基準となるものとして国登録有形文化財に登録されました。 玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙だしや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷等が往時のまま残されています。 この住宅は、神足村の旧家岡本家一族の商家で、江戸時代には「紙屋清兵衛」と、いう屋号で和紙などを商っていたようです。 明治以降、町医者などに利用されていたものを、後年になって石田家が購入。 平成15年長岡京市が取得し、「神足ふれあい町家」として整備されました。 神足ふれいあい町家 「旧石田家住宅」は、長岡京市が購入し「長岡京市立神足ふれあい町家」として活用しています。 建てられてから170年以上経つという様々な人の手に渡り、最後に所有していたのがお茶屋さんを営んでいた石田家だった。 今も玄関前に残された「茶」の看板がその頃の面影を残しています。 そんな歴史ある建物でありながら、今では市民の方々に広く公開されています。 長岡京市民なら、レンタルスペースとして広間を使えます。 またこの施設では障がい者の方が働かれていて、障がい者の方が作られたおしゃれな作品も販売しています。
神足と古市の共同墓地にあります。右手には六地蔵、左手には五王像があります。 いずれも江戸時代末期のものと考えられ花崗岩製です。 石仏群は死後の恐怖から逃れようとする、庶民信仰から造られたといえます。 中世からの庶民信仰では、死後の世界は地獄絵に見られるようにとても恐ろしいところだったようです。 誰もが逃れたい地獄行き。けれど、裁きの場に登場するこちらの石仏群の表情はやさしい。 閻魔帳をもとに死者は生前の行いを閻魔様に裁かれますが、お地蔵さん達の救いを受け、最後は如来にみちびかれ、極楽浄土に向かう。 そんなハッピーエンドのストーリーを丸みを帯びた等身大の坐像群はイメージさせます。 小学校に隣接し、かつては夏休み時の子供達の"肝試しスポット"でもあった。 と伝え聞く神足・古市共同墓地は、今は明るく開放的です。 |