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VG槻輪
令和5年2月 活動予定

わがまち紹介
まちの真ん中に自然と遺跡のまちを感じる
元茨木川緑地公園
元茨木川緑地梅園・桜通り散策

月    日 2023年2月16日(木)
集合場所 大阪モノレール沢良宜駅改札出口 集合
訪問先 元茨木川緑地梅林観賞・桜通り散策
その他 1)コロナ等で中止の場合は前日に連絡網で連絡します。
2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい。
3) ウオーキングスタイルで参加下さい。

元茨木川緑地
 茨木市の「川端通り」と「桜通り」に沿ってまちの中心を南北に貫く全長約5kmの元茨木川緑地です。  まちの中心にこれだけ長い緑地帯があることは珍しく、「大阪府緑の百選」にも選ばれており、多種多様な季節の植物や野鳥などがたくさん。
四季折々の被写体が写真撮影を楽しませてくれます。
身近な自然として多くの人に親しまれています。
 車が通らない緑に包まれながら、安心して気持ちよく、日本の歴史史跡が点在する散策道路です。
 東奈良遺跡公園には、銅鐸鋳型出土記念碑がありますが、この地方の歴史を語りかけています。
元茨木川緑地梅林

桜通り地図

 元茨木川緑地の南端にある梅園です。
 元茨木川緑地にある梅園(高浜町3番付近)では、80本の梅が2月中旬から3月初旬に咲き誇り来園者の目を楽しませてくれます。
 梅園の木は高くないので、それぞれの花もみやすい。
梅園の梅の木には番号がついていて、「梅園マップ」も出来ています。(参加者には配布します)
沢良宜とは
 沢良宜駅は、大阪府茨木市高浜町の大阪高速鉄道大阪モノレール線の駅の名前です。
 沢良宜(さわらぎ)のいわれについては諸説あるそうですが、古代朝鮮語説だとサワラ=首邑(しゅゆう=その地方の中心の村)という意味とのことです。
 高槻の三島江周辺は、古代朝鮮や北九州からの人々が居住し、茨木では東奈良遺跡という大きな村があったとされる。
 沢良宜は現在、沢良宜東町や沢良宜西などの町名で使用され、地元の氏神様は漢字4文字で「佐和良義神社」と言います。
佐和良義神社

佐和良義神社

 大阪府茨木市美沢町に鎮座する式内社です。
 創建・由緒は詳らかでありません。神社の北方に弥生時代の環濠集落跡である「東奈良遺跡」があり、多数の銅鐸と共に鋳型が発見されています。
この鋳型で製造した銅鐸が近畿一円、さらには四国にまで出土しており、東 奈良遺跡は全国有数の一大銅鐸製造工場でした。
 神社の信仰はこの東奈良遺跡と関係があるとする説があり、御祭神の「迦具土神」は一般に火の神ですが、カグとは銅の古語であり、また社名のサワラも銅器を指すとする説もあります。
一方で境内には「天児屋根命」と刻まれた灯籠があるようで(未見)、天児屋根命を祀っていた時期があったようです。当地周辺は「阿為神社」や「太田神社」など中臣氏関係の神社が多く、また藤原鎌足の墓であるとする説のある「阿武山古墳」もあり、古くから中臣・藤原氏と関係の深い地でした。
また中世以降も興福寺・春日大社の荘園となり、変わらず藤原氏と関係のある地であり続けたようです。
 このため創建当初からなのか時代が下ってからなのかは不明ながら、天児屋根命を祀っていたのも然るべきだったことです。
 現在は小さな神社ですが、その信仰の歴史は極めて古いものがあるのかもしれません。
東奈良遺跡
 東奈良遺跡は、南茨木駅から東側一帯にあります。
 1973年(昭和48年)、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300メートルに出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館があります。
 東奈良遺跡には、二重の環濠の内部に高床倉庫など大型建物や多数の住居があり、外部には広大な墓域もあった。
 発見された工房跡から、銅鐸の鋳型が35点も出土しており、ほかにも銅戈・勾玉などの鋳型が発掘されている。
ここの鋳型で生産された銅鐸が、近畿一円から四国でも発見されている。
茨木市立文化財資料館

茨木市立文化財資料館

 茨木市の東奈良遺跡で発掘された弥生時代の資料を中心に、茨木市の戦国時代の資料?近代までの生活史がわかる資料が展示され、定期的にテーマ展が開かれています。
資料館の北側には古代の生活を偲ばせる、銅鐸・埴輪などをかたどった像や東屋が置かれた「東奈良史跡公園」(通称:はにわ公園)となっています。
 『1階展示室には、先人たちが残した貴重な文化財である銅鐸の鋳型、土器、古墳の模型、古文書、民俗資料など700点ほどが展示されていて、茨木の歴史を時代に沿ってご覧いただけます。
 2階展示室には、「戦国時代の茨木」をテーマに、茨木城にまつわる武将の話や、ゆかりの品々、茨木遺跡の出土品などを展示しています。
茨木市 奈良町 由来

奈良 春日神社

 奈良町から府道大阪中央環状線を挟んで反対側に位置する「奈良春日神社」。
 元々は現在の府道大阪中央環状線が通る場所に社殿があったそうですが、昭和38年の中環建設に伴い社殿を移設。現在の場所に移ったようです。
創建年代不詳なるも、往昔当村住人三宅石雄の妻は藤原氏の出身にて子無きを憂え大和の国春日大明神に祈りて男子を出産。故に御神威を崇め大神を勧請し地名を奈良と呼び、安産の神として崇敬される。後、春日神社と称し全村崇敬の誠を捧げ奉れり。当時の神事祭等は大和の国奈良春日大社の神職三人来たりて行うと伝えられる。明治五年村社に列せられる。
 簡単に説明すると、「昔、この村に住んでいた人が子供を授からないので、大和の国にある春日神社にお祈りしたところ、男子を出産。それを機に神社を勧請して地名を奈良と呼び、安産の神として崇敬。
後に神社の名前を春日神社とした」。ということのようです。「奈良」という地名はここから付けられたようです。

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