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記 阪急嵐山駅から嵯峨鳥居本町への散策路で主要スポットを順に説明して行きます。渡月橋
承和年間(834 - 848)に僧道昌によって架橋したのが最初とされており、現在の位置には後年に角倉了以が架けたとされる。 現在使われている橋は昭和9年(1934年)6月に完成したものである。 亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられた。 嵐山を代表する観光名所であり、春と秋を中心に多くの観光客で賑わう。 12月には嵐山花灯路で、夕方から夜にかけて橋がライトアップされる。 天龍寺別院塔頭「慈済院」(てんりゅうじ べついん たっちゅう じさいいん)
天龍寺の心臓部である法堂(はっとう)や方丈から、1番近いのは天龍寺別院塔頭「松厳寺」で2番目に近い塔頭が「慈済院」です。 慈済院の門は、白い門で、門の右側に「水摺福寿大弁財天」と書かれた木札が立っています。 天龍寺は全体的に、純和風建築の建物が多いですが、この門に関しては中国様式(唐様)で、非常に特徴的なのですぐにわかります。
七福神といっても天龍寺の七福神は一般的な組み合わせではなく、布袋尊と寿老人の代わりに不動明王と稲荷が含まれています。 慈済院に祀られている「水摺福寿弁財尊天」は、七福神「弁財天」と同様です。 7人(7柱)いる七福神の中で、唯一、女性の神様として知られています。 手には琵琶を持っていたり、芸術に関連するものを持っていることが多く、弁財天は芸術の女神として、芸能関係者からの信仰もあつい女神なのです。 慈済院の開山は、南北朝時代まっただ中の1363年。夢窓疎石の弟子による。 天龍寺の開山を行った夢窓国師の直弟子の1人であった、無極志玄(むきょく・しげん。順徳天皇の曾孫。/生1282年〜没1359年)が開山したと伝えられています。 無極志玄は、1346年(南朝・興国7年/北朝・貞和2年)に、夢窓疎石の後継者として、天龍寺の第2世を務めました。
慈済院の隣にある天龍寺塔頭の松厳寺の開基となった四辻善成も、順徳天皇の曾孫であり、無極志玄は四辻善成の兄にあたります。こう考えると、兄弟で協力して天龍寺をもり立ててきたことになります。 慈済院には2つ門「山門と来福門」があります。 白い門は、実は「来福門」。来福門の左側に、山門があります。 山門は少し入りづらい雰囲気がありますが、山門の周囲は、古く貴重な建築様式となっていますので、注目したい。 慈済院の中に入るには、来福門を通りましょう。来福門を入ってすぐの場所に、御本尊である弁財天をお祀りする、弁天堂があります。
実は注目度が高い、天井の雲龍図です。 雲龍図といえば、天龍寺法堂の天井に描かれたものを思い浮かべる人が多いはずですが、慈済院の弁天堂の天井にも、見事な雲龍図が描かれており多くのファンに注目されています。 嵯峨野竹林の道(ちくりんのみち)
延暦20年(801年)、道雄上人が唐から持ち帰ったのが始まりというのが通説(鎌倉時代に道元禅師が宋から持ち帰ったという説もあります)。 平安時代から貴族に愛され、別荘や庵が多く築かれた嵯峨野。 嵐山の北東に広がり、今も変わらず普遍的な美しさを称えている嵯峨野の竹林。 大河内山荘から野宮神社の小道はテレビドラマやCMなどにもよく登場する京を代表する風景で、風情があると人気スポットになっている。 毎年12月には、京都・嵐山花灯路が開催されライトアップされる。 嵐山を訪れた際には是非立ち寄って幻想的な竹林の道を歩いてみましょう。 野宮神社
「野宮(ののみや)神社」は、そんな竹林の中にある神社。 とくに縁結びや子宝にご利益があるといわれ、境内には恋愛にまつわるお願い事を書いた絵馬がたくさん掛けられています。 大河内山荘
比叡山や近隣の嵐山〜保津峡の景色・借景が楽しめる回遊式庭園で、広大な庭園に点在する“中門”、“大乗閣”、“持仏堂”、茶室“滴水庵”が国登録有形文化財となっています。 御髪神社(みかみじんじゃ)
御髪神社は1961年(昭和36年)に、京都の理美容関係者によって創建された神社です。御祭神は日本の髪結師の初祖と言われている藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)。鎌倉時代に実在した人物で、政府御用達の髪結師として活躍しました。何故、この地で御髪神社のご祭神になったかというと、彼の父親が大きく関係しています。 かつて亀山天皇に仕えていた政之の父親は、預かっていた大切な宝刀「九王丸」を紛失してしまいます。その刀を探すため旅に出ることに決め、一緒に連れて行ったのが政之でした。旅の途中、金銭的な面で父を支えるために始めたのが「髪結い」で、これが日本で最初の理容職だと言われています。その後、下関で髪結所を開いたり、無くなるまで政府御用達の髪結師として働いたりと、この道で大きな評価を受けた人物でもあります。 政之公は、建武2年(1335年)7月17日に亡くなりました。この功績を称えて、昭和のはじめごろまでは命日の17日を月の定休日にしているお店も多かったそうです。 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
国の重要文化財に指定されている多宝塔は言うまでもないでしょう。 嵯峨野といえば、藤原定家が『小倉百人一首』を編纂した地だと言われていますが、その定家の山荘があった場所が、この常寂光寺だという説があります。 実際に、このお寺には「時雨亭跡」とされる場所に碑が建てられており、「山荘跡」や「小倉百人一首編纂之地」の碑もあります。 また、定家と藤原家隆の木造を安置してある「謌僊祠(かせんし)」も建っています。 他にも「女の碑」など、さまざまな発信もなされています。 拝観料 500円 落柿舎(らくししゃ)
松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。 芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。 拝観料:300円 小倉山二尊院(おぐらやま にそんいん)
山号は小倉山。 寺号は華台寺。 詳しくは小倉山二尊教院華台寺、二尊ヘ院?臺寺と称する。 二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像に由来する。 総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。 また奥には小倉百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所がある。 また、小倉餡発祥地の地として伝わる。 拝観料:500円 祇王寺(ぎおうじ)
祇王寺は竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵で、『平家物語』にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られております。 祇王寺は昔の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鎮によって創建されたと伝わっています。 山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになりました。 拝観料:300円 草庵に安置された祇王たちの仏像
祇王、祇女の像は鎌倉末期の作で、作者は不詳ですが目が水晶で鎌倉時代の特徴をよく表しています。 季節ごとに彩りを変える吉野窓 草庵の控えの間にある大きな丸窓を吉野窓と言い、境内の緑葉を通って差し込む日差しが障子に色とりどりの色彩を映し出すことから「虹の窓」と称しています。 草庵の中にある吉野窓
滝口寺
法然の弟子念仏房良鎮が開創した往生院の子院三宝寺の旧跡。「平家物語」の平重盛の家来斎藤時頼と建礼門院の侍女横笛との悲恋の物語ゆかりの地として近年再興された。出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を本堂に安置。参道の歌碑は横笛が記したとされる。浄土宗。 滝口寺は、平重盛家臣・滝口入道時頼と建礼門院の侍女・横笛の悲恋の舞台となったお寺。本堂には横笛と滝口入道の比翼の木像が安置され、参道には横笛の歌石がひっそりと立っている。また境内周辺は、平安時代、滝口寺と祇王寺を子院とする往生院があったところと伝えられている。 入園料:300円 横笛との悲恋の物語 滝口寺「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋で知られているこのお寺は、祇王寺のすぐ隣にあります。祇王寺と比べると人が少なく静かに過ごせるお寺です。滝口寺はもとは往生院三宝寺というお寺で、念仏道場として栄えましたが、応仁の乱などの戦乱を経て、祇王寺と三宝寺のみが残りました。三宝寺(や祇王寺)は明治維新の廃仏毀釈で途絶えますが、後に復興され、その際に小説家・高山樗牛の「滝口入道」に因み、滝口寺と名付けられ現在に至っています。 滝口寺滝口入道は、平重盛に仕えた斎藤時頼という名の武士でした。ある時、平清盛が西八条殿で催した花見の宴の際に、建礼門院(徳子)の侍女であった「横笛」という名の女官を見かけて恋しく思い、恋文を送るようになりました。しかしそのことが時頼の父に知れると、父からは「おまえは名門の出にして、将来は平家一門に入る身にありながら、なぜあんな横笛ごときを思いそめるのか」と厳しく叱られ、時頼は自責の念を強めて往生院で出家し、滝口入道と名乗るに至りました。 滝口寺横笛は滝口入道が出家したことを伝え聞くと、自分の思いを打ち明けたいとあちこち探し回り、ついに往生院へとたどり着いきます。しかし、そのころにはもう日が暮れていました。そして荒れた僧坊から聞こえてきたのは、あの滝口入道の声。横笛は女子の身でやってきたことを告げようとして僧坊へと声をかけます。滝口入道も動揺して襖の隙間から横笛を覗くと、横笛の裾は露で濡れ、袖は涙でぬれていました。しかし、滝口入道は遣いの者に「全くここにはそのような人は居りません。お門違いではないでしょうか。」と言わせるのです。 滝口寺泣く泣く帰るほかなかった横笛は、それでも真の思いを伝えたいと、近くにあった石に指を切った血で歌を書いていきました。「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に 我れを導け」。 その後、滝口入道は未練が残ったまま分かれた女性に住まいを見つけられたからには修行の妨げとなるとして、女人禁制の高野山に移りました。 滝口寺横笛もその後すぐに尼になったと耳にした滝口入道は、「そるまでは 恨みしかとも梓弓 まことの道に 入るぞ嬉しき(あなたが尼になるまでは私のことを恨んでいたが そのあなたも仏道に入ったと聞いて嬉しい)」と歌を送り、横笛はそれに「そるとても 何か恨みむ梓弓 引きとどむべき 心ならねば(尼になったといってもどうしてあなたを恨みましょう とても引きとめることが出来るようなあなたの決心ではないのですから)」と返歌を送っています。横笛は間もなく出家した寺で亡くなり、滝口入道はこれを伝え聞くとますます仏道修行に励み、高野の聖と呼ばれる高僧になったといいます。なお、横笛は出家をせずに、悲しみのあまり大堰川の千鳥ヶ淵に身を投げたとの説もあり、いずれにしても悲恋として伝わっていきました。 横笛歌石滝口寺には、滝口入道と横笛の木像と、横笛が歌を書いた石などがあり、滝口入道と平家一門の供養塔も立っています。起伏のある境内は緑が美しく、木像のあるお堂には座布団も敷かれ、額縁にはめ込んだような美しい眺めを、心行くまで楽しむことができます。私もこの日は何十分か時を過ごしましたが、他の方に出会うことはありませんでした。 壇林寺 当寺は、平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)(786〜850)が創建した寺院に由来する。皇后は、容姿美しく婦徳に秀で、学芸を愛され、橘氏の学校として学館院を設けたといわれている。 また、皇后は、深く仏教を信仰し、嵯峨の地に檀林寺と呼ばれる壮大な寺院を営み、盛時には、十二坊を数えたといわれている。 さらに、皇后は、当時、来朝した中国の僧、義空を師として、この寺で禅書を学び、これが、我が国で禅が唱えられた始めといわれている。 当寺は、この由緒によって、昭和39年から再建された寺院であるが、霊宝館には、皇后ゆかりの品をはじめ、日本、中国の仏教美術の数々が納められている。 拝観料金:400円 證安院(しょうあんいん)
本堂 二尊院やc王寺を越えて、化野念仏寺に向かう道すがらに證安院はあります。小倉山のすそ野に竹林や田畑が広がるこのあたりは、昔はうっそうとした竹藪ばかり。昼間でも薄暗くて、ちょっと恐ろしいような場所でしたが、今では休日ともなると嵯峨野めぐりを楽しむ若者や、観光客で、さながらメインストリートのような賑わいをみせます。 證安院の門を入った正面に『南無阿弥陀佛』と彫られた名号石が建っています。地中に埋もれていたのを掘り起こして建立したもので、御名号は誓阿上人の書かれたものです。 この名号石をとり囲むように、庭にはたくさんのさつきが植えられています。以前は軒先までとどきそうな大さつきがあったので「さつき寺」とも呼ばれていました。東本願寺のふすま絵にも、この大さつきを描いたものがあるそうです。 清凉寺(せいりょうじ) 清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院です。 それは清凉寺の本尊釈迦如来像が古来より多くの人々に信仰を集めてきたことに由来しています。 そのことはまた、「如来二伝のおんかたみのむつまじさに、嵯峨の清凉寺にもうでて……」の序文に始まる増鏡や、宝物集・謡曲百万にかたられていることからもうかがえます。 本尊釈迦如来は、古来釈尊37歳の生身のお姿を伝えた霊像として厚く信仰をあつめています。 この尊像を北宋より請来した(約千年前)開祖東大寺の「然法橋が、尊像内に謹封した五臓六腑・願文・経巻等々(すべて国宝)の発見により、まさに生身仏であることが実証されました。 おん丈は等身大の檀像で顔貌・衣文の様式等、マツラ式に似たインド古式の様相を伝えています。 拝観料 :400円 仁王門(京都府指定文化財)
「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられている門は安永6年(1776年)に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られています。 両脇の赤い阿形吽形一対の金剛力士像は室町後期のものと伝えられています。 上層の軒下に掲げられている「五臺山」の額は、宋より帰国した「然上人(ちょうねんしょうにん)が近くの愛宕山(標高924メートル)を宋の五台山になぞらえてここに大寺院を建立しようとしたことに由来します。 五台山は宋の仏教の三大霊場の一つに数えられていた地です。 この山門を入ると、広い境内の正面に堂々とした構えの本堂(釈迦堂)があります。 本堂に安置する国宝の三国伝来の木造釈迦如来立像があまりにも有名で清涼寺が嵯峨釈迦堂の名で親しまれるようになりました。 本堂の向かって右側に阿弥陀堂があります。 阿弥陀堂にはかって棲霞寺本尊の国宝阿弥陀三尊坐像(嵯峨光佛)が安置されていましたが、今は霊宝館に安置されています。 霊宝館は春季(4月と5月)、秋季(10月と11月)に特別公開されています。 本堂(釈迦堂) (京都府指定文化財)
寛永14年の嵯峨大火により諸堂宇が消失しましたが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄7年(1694)から修理に取りかかり、同14年(1701)年に上棟。 同16年に鎮壇、遷仏供養を行いました。 桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備えます。 内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なものです。 宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画があります。 また本堂正面?上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っています。 厭離庵(えんりあん)
霊元法皇から厭離庵の号を賜わる。その後再び衰え、明治に入り復興。書院のほか、茶席時雨亭、定家塚などがある。 (非公開)明治四十三年白木屋社長大村彦太郎氏が佛堂と庫裡を建立され山岡鉄舟氏の娘素心尼が住職され以後尼寺となる。 但し、11月1日〜12月7日のみ一般公開(建物内への見学は不可です。見学は庭園・茶室・本堂のみ。 |