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VG槻輪
令和2年5月 活動予定

わがまち紹介
門前まちとして保護されてきた総持寺
茨木市総持寺町
総持寺のまさちの散策と総持寺参拝

月    日 2020年5月21日(木)
集合場所 阪急総持寺駅改札出口 集合
訪問先 総持寺散策・参拝
その他 1)小雨決行
2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい。
茨木市
 市名の由来はイバラの木が多く茂っていたことやイバラを切って屋根をふいたという説から「茨切」(いばらきり)がなまって「茨木」となった説などの説がある。宝亀年(770年)間には「荊切」と表記されていたが、正治年(1199年)間には現状の「茨木」表記が主として用いられるようになっており、その間「苅切」や「茨城」の表記も見られた。
市の南部にある阪急南茨木駅の東側一帯に弥生時代の大規模環濠集落の遺跡である東奈良遺跡がある。二重の環濠の内部に多数の住居や高床式倉庫など大型建物があり、外部には広大な墓域もあった。なかでも銅鐸・銅戈・勾玉などの鋳型が出土した工房跡が発掘されており、ここの鋳型で生産された銅鐸が近畿一円から四国でも発見されている。
平成19年4月5日わがまち紹介「銅鐸つくりのまち・さくら通り散策:南茨木」で訪問した。
総持寺町

 

三島村(みしまむら)は、大阪府三島郡にあった村。現在の茨木市の南東部、阪急京都本線・総持寺駅の周辺にあたる。現在の摂津市である三島町とは別の区域に所在した。
阪急京都線の総持寺駅を下りて徒歩五分。町の名にもなっている総持寺の山門が小高い丘の上に堂々と威容を誇ります。地名にもなっている総持寺は、高野山真言宗のお寺で西国三十三観音霊場・22番札所にもなっています。
総持寺という地名は南北朝期にすでに見られますが、寺内町を形成していたわけでもなく、寺院を中心とした近郊農村だったようですが、江戸時代の資料によると門前に参詣客を相手とした宿が数多くあったようです。 幹線道路から離れた、小高い丘の上に総持寺の古い町並みが残されています。大都市近郊の駅前に近い立地でありながら、地形的に周辺から隔絶されているため、非常に静かで時間の流れも周囲とは異なるような錯覚を覚えます。総持寺を起点に東へ200mほどの狭いエリアの中に複数の大きな豪農級の屋敷を中心として、細い路地裏にも漆喰の土蔵や虫籠窓を設えた伝統的な佇まいの町家などが整った状態で残されている。
西国第二十二番補陀洛山 総持寺

 

承和年間(834-847年)、開基藤原山蔭の父(高房)が任地の太宰府に向かう途中、息子の政朝が川に落ちてしまったが、翌朝、政朝が大きな亀の背中に乗って帰ってきたという。
この亀は高房が前日に漁師から買い取り、川に放した亀であった。
喜んだ高房は唐人に観音像を刻む香木を探してくるように頼んだ。数十年後、『高房卿の求めに応じて海を渡す』と刻まれた香木が流れ着いたが、この時、高房は既に亡くなっていた。
中納言になっていた政朝は、香木を持って都に行き仏師を探したが優れた人が見つからなかったので、長谷寺に行き観音に祈ったところ、童子が現れた。童子はこの香木を材とし、亀に乗った千手観音を刻んだという。
仁和2年(886年)にこの仏像を本尊として祀ったのが総持寺の創始と伝えられている。
亀について一言: 2世紀頃中国で生まれた道教では仙人が住むという蓬莱山を背負っているのが亀といわれ、中国では亀は竜と共に神聖な動物とされてきたようです。また、亀は神仙思想の世界と現世を繋ぐ動物とも言われている。
寺伝では元慶3年(879年)頃、藤原山蔭が創建し、山蔭の三回忌の寛平2年(890年)に伽藍が完成したと。 本尊

 

亀に乗った「千手千眼観世音菩薩」 総持寺のご本尊は像高75.4cm、亀に乗った「千手千眼観世音菩薩」です。秘仏となっています。
毎年4月15日〜21日のみ開扉されています。(2020年は、コロナウイルス問題で中止)
「西国結縁御開帳 本尊御開扉」の日は、本堂の外からご本尊と結縁を結べるだけではなく、普段の開扉では入れない内陣にまで立ち入りが許されており、ご本尊を数十センチの距離で拝見することができます。やはり目を惹くのは、足元にいる「亀」です。観音像の下から鎌首をもたげているのです。
現実の亀のような穏やかでのんびりした表情ではなく、いかにも古来の、やや禍々しいほどの表情だそうですをしています。亀に乗った仏像は他でも見られますが、それがご本尊になっているのは珍しい。
また、本堂が兵火にあって焼け落ちた際に、ご本尊も焼けてしまったため、上半身は黒く炭化しているのが分かります。仏像自体はややいかり肩気味で、千手の手がやや低い位置から伸びているため、決して優雅な雰囲気はありませんが、時代の重みを感じさせてくれるような仏様です。
また、脇侍は「善女龍王(ぜんにょりゅうおう)」と「雨宝童子(うほうどうじ)」も、色彩が鮮やかな像です。
包丁塚

 

本尊造立の際、開山の藤原が本尊を彫る仏師に1,000日間にわたって、毎日異なる献立の料理でもてなしたことに由来します。
現在行なわれている『山蔭流包丁式』は、室町時代から伝えられており、当主が賓客を前に、座敷にまな板を置いて、眼の前で料理をして見せたことに由来しています。
庖丁式殿(開山堂)を会場に、全国各地の調理師が、烏帽子、直垂という正装で、右手に庖丁、左手には真魚箸を手にし、華麗な庖丁さばきを披露してくれます。
庖丁式を無事につとめあげた調理師には、庖丁道山蔭流宗家である総持寺から、庖丁道山蔭流の免許の許し状が授与されます。
総持寺さんの寺カフェ「ポタラ」

 

屋根が特徴的な建物です。
「ポタラ」は観音浄土を意味する古代サンスクリット語のポータラカ(補陀洛)から来ていて、補陀洛の山並みをイメージしていまする。
補陀落(ふだらく、梵(ボン): Potalaka)は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。その山の形状は八角形であるという。インドの南端の海岸にあるとされた。補陀落山(ふだらくせん)とも称す。

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