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VG槻輪
平成31年3月 活動予定

わがまち紹介
薬のまち道修町を歩こう!
大阪中央区道修町
道修町ミュージアムストリート

月    日 2019年3月14日(木)
集合場所 大阪地下鉄堺筋線「北浜」駅 南改札出口
訪問先 少彦名神社・くすりの道修町資料館・田辺三菱製薬資料館他
その他 1)雨天決行
2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい。
3)予定時間     10:00〜12:00
4)くすりの道修町資料館では、ビデオでの説明があります。
5)田辺三菱製薬史料館には館内説明をスタッフの方にお願いしています。

大阪市中央区
中央区は、元号が平成になって間もない1989年(平成元年)2月13日に、それまでの東区と南区が合併し誕生した。
早くから大阪の心臓部として業務地化が進み居住には適さない環境になりつつあったため、30年以上にわたりドーナツ化現象による居住者減少が続いてきた中央区だが、バブル崩壊以降老朽化し取り壊されたオフィスビルの跡地などに居住用の大型マンションが建ち並ぶなどして再び夜間人口が上昇。
特に谷町筋沿いのかつての東区だった中央区の東部(いわゆる上町台地の北端付近)においてタワーマンションの建設が盛んに行われ、著しい人口増加となった。
この地域は官公庁街や北浜のような金融街のみならず大阪府立大手前高等学校などを有する文教地区でもある。
区の大部分がオフィス街及び官庁街であるため純粋な住宅地は限られており、マンションや団地などの集合住宅が大半を占め、低層住宅の戸建住宅やアパートなどは極めて少ない。
道路は碁盤目状で、市内他地域と比べると整備が進んでいる。

道修町(どしょうまち)ミュージアムストリート 大阪の道修町は江戸時代から薬種問屋が軒を連ね、現在も多くの製薬会社の本支店がある「くすりのまち」として知られています。
 この道修町にある、「くすりの道修町資料館」(少彦名神社に併設)をはじめ道修町に縁の深い老舗製薬会社の3つの施設で日本の薬業とともに歩んできた道修町の歴史、当時の文化・生活、今に至る医薬品の話など「道修町」と「くすり」に関するさまざまな情報が、所蔵する貴重な資料や写真、道具類などを用いて展示・無料公開されています。
薬に関する展示施設が1つのエリアにこれだけ集まっている場所は他にはありません。

道修町の歴史
大阪の難読地名のひとつである道修町(どしょうまち)は、どうして"くすりの町"とよばれるようになったのでしょうか。
 道修町を含めた船場地域は、豊臣秀吉が大阪城の三の丸を築城する際、そこに住んでいた町人や寺院を強制的に移し新しく城下町として開発されたとされています。
 道修町がくすりの町と言われる様になったきっかけは、寛永年間(1624〜1644)に堺の商人小西吉右衛門が道修町1丁目に薬種屋を開いたこととされています。
 やがて、1722(享保7年)、八代将軍徳川吉宗は道修町の薬種中買仲間 124軒を 株仲間として、中国から輸入された唐薬種や日本で採れる和薬種の適正検査をし、値段を付け全国に売り捌く特権を与えました。
 明治時代になると、株仲間は解散となり、営業の自由化と共に誰もが組合に加入して自由に商売が出来るようになりました。
しかし、悪質な流通業者がいて粗悪品を売りつけたりしても罰する規定はありませんでした。
そこで、道修町の薬業者達は、道修町ブランドに対する信用の為、団結して事業を展開していきました。
 積極的に洋薬を取り入れ、自前で品質検査を行う『 大阪薬品試験会社 』を設立し、官立の試験所に優るとも劣らない信用を獲得しました。
 また、有力薬業者達により製薬会社を立ち上げたり、洋薬に対応するため開設した『薬舗夜学校 』は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学に発展しました。
 そこには、少彦名神社の薬の神様に対する信仰をもとにつながり崇敬団体薬祖講が結成されたことにも深い関係があります。
 現在の道修町は、本社機能が東京にシフトしている製薬企業や、合併して社名が変わったりして、 『道修町=くすりの町』とすぐにピンとくる人は昔よりは少なくなってしまったかもしれませんが、今でも薬祖講を中心に、神農祭やくすりの道修町資料館を通じて地域と企業が町ぐるみ一体となった活動を続けています。

少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)(神農さん)
大阪道修町(どしょうまち)は、豊臣時代頃から薬種取引の場として、薬種業者が集まるようになっていました。
江戸時代になると、幕府は道修町の薬種屋124軒を株仲間として、唐薬種や和薬種の適正検査をし、全国へ売りさばく特権を与えました。
薬は、人命に関わるものであり、その吟味は大変難しいものがあります。
 そこで、神のご加護によって職務を正しく遂行しようと、安永9(1780)年京都の五條天神より少彦名命を仲間の寄合所にお招きし、神農炎帝王とともにお祀りしたのが始まりです。

くすりの道修町資料館
"神農さん"で親しまれている道修町の少彦名神社の地は、江戸時代、薬業仲間の寄合所(事務所)でした。
 そのため、およそ300年前からの文書が保存され、大塩平八郎の乱や、大阪の大空襲などの災禍からも免れ、現在まで伝えられてきました。
 1997(平成9)年、「道修町に関する諸資料を町全体で保存し、公開しよう」と神社の社務所ビルの3階にくすりの道修町資料館が開館されました。
 "ここへ来れば道修町がわかる"をコンセプトに、こじんまりした館内ですが、見応え十分の品々を展示しています。

田辺三菱製薬史料館
当館は2015年5月12日、田辺三菱製薬本社社屋の中に開館しました。
田辺製薬の創業は、1678年(延宝6年)初代田邊屋五兵衞が、大阪・土佐堀田邊屋橋(現・常安橋)南詰で、合薬「田邊屋振出薬」の製造販売を家業として、店舗を開いたことに始まります。
そもそも「田辺製薬」は、延宝6年(1678)に「初代となる田邊屋五兵衛が「田邊屋振出薬」という、薬の製造販売をする店を創業したことに始まります。
時代が流れ、そ店をルーツとする「田辺製薬」と、三菱化成などいろいろな会社が合併してできた「三菱ウエルファーマ」という会社グループが、2007年に合併してできたのが「田辺三菱製薬株式会社」なのです。
 300有余年、医薬品の創製を通じて、世界の人々の健康に貢献してきました。
「田辺三菱製薬史料館」には、常に時代に先駆けて社会の役に立つ新薬を提供し続けてきた企業活動と、幾多の困難を乗り越えてきたフロンティア精神の歴史的資料を一堂に集めています。
 このかけがえのない歴史と精神を受け継ぎながら、高い使命感、倫理観をもって企業活動を展開し、社会に貢献できるよう努められておられます。
製薬の歴史の一端と、会社の歩みをまとめた歴史とともに当史料館を見学します。

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