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VG槻輪 わがまち紹介 |
月 日 | 2018年11月15日(木) | ||||
集合場所 | 天王寺公園入り口付近で集合 |
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訪問先 | 茶臼山天王子公園・慶沢園・大阪市立美術館 | ||||
その他 |
1)雨天中止(前日18時大阪天王寺地区のインターネット気象庁の天気予報で決めます。 2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい。 3)大阪市立美術館 入館料 300円/人、恵沢園:150円/人 4)昼食は天王寺で予定しています。 |
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記
大阪市のほぼ中央に位置し、地勢は西高東低で南北にのびる帯状の上町丘陵と呼ばれる台地にあります。 区内には、わが国最初の大伽藍で、聖徳太子の創建(593年)による四天王寺をはじめ約200の社寺があるほか、さまざまな名所旧跡が多く、歴史と伝統の息づく町です。 また、天王寺公園をはじめ緑豊かな公園が多く、大学から幼稚園まで70にちかい校園を有し、美術館・動物園などの文化施設にも恵まれた文教の町です。 医療面では、大阪赤十字病院・大阪警察病院・NTT西日本大阪病院などの大病院が多く、設備のすぐれた病院が数多く存在しています。 天王寺ターミナルは、JRを中心としてOsaka Metro、私鉄等の各線が集結しており付近の百貨店、商店街、地下街等の商業活動も盛んで、大阪でも有数の繁華街を形成しています。 また、関西国際空港の開港(平成6年9月)に伴って、国際集客都市大阪の南玄関口としての更なる発展が期待されています。 上本町ターミナル周辺は、都市整備が進み、近代的な町へと変貌を遂げ、大阪国際交流センターや大阪日本語教育センター(関西国際学友)などの活動が、大阪の新しい文化・情報の発信基地として注目を集めています。
形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことである。 茶磨山(ちゃすりやま)とも呼ばれる。 山の名前としては、通称を含め全国に200以上あるという。 かつて戦で縁起を担ぐ武将に好まれ陣が張られた場所が多い。 天然の山ではなく古墳であることもしばしばある。 前方後円墳の形が茶臼にも見えるからである。 四天王寺の南西に立つ茶臼山は、5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳であるという説がなされている。 しかし1986年の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つからなかった。 一方、規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられ、結論が出されていないのが現状だ。 大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことはよく知られる。
しかし1986年の発掘調査結果によると、古墳に欠かせない葺(ふ)き石や埴輪(はにわ)が全く見つからなかった。 一方、規則正しい作られ方をしている盛り土は、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通していることから、茶臼山が古墳丘ではないとも断定できず、専門家の間で議論が繰り広げられ、結論が出されていないのが現状だ。 大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことはよく知られる。 古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されている。 公園本体との間には河底池(かわぞこいけ・こそこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)があるが、これは788年(延暦7年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われる。 同地を古墳とするかは説が分かれる。 古来荒陵、または荒陵山と呼ばれてきた同地は古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる石棺蓋が四天王寺に伝わっている。 古地図の形状からも追認され、そのため従来前方後円墳といわれてきた。 しかし1986年(昭和61年)の発掘調査の結果では埴輪や葺石などが確認されなかったことから、「古墳ではない」とする説も現れた。 一方、四天王寺境内の発掘調査で埴輪などが出土しており、茶臼山古墳を含めさらなる周囲の発掘の進展が望まれている状況にある。 2009年(平成21年)の発掘調査で水銀朱を塗られた石室らしきものが発掘されたことが発表されている。 明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていたが、1925年(大正14年)に住友家から邸宅敷地(現・大阪市立美術館)、慶沢園とともに大阪市に寄付され天王寺公園の一部となった。 河底池は1928年(昭和3年)に公園に編入された。 慶沢園(けいたくえん) 慶沢園は、天王寺公園内にある純日本風の庭園です(林泉回遊式庭園)。 大正15年(1926)、江戸時代からの大阪の豪商・住友家から大阪市へ寄贈されました。 庭園の設計・施行者は「植治(うえじ)」こと第7代小川治兵衛。 平安神宮神苑、円山公園、大原三千院など数々の庭園を手掛け、近代造園のスタイルを確立したと称えられる造園家です。 庭造りは、中央部に大きな池を配置し、築山を築き、その周辺には飛石や橋をめぐらせ、躍動する水の動きを足下に感じさせてくれる沢飛びの手法が用いられています。 近代的で明るく開放的であり、躍動する水の流れをはじめ自然を多く取り入れた庭をご堪能いただけます。
大阪市立美術館は、大阪市天王寺区の天王寺公園内にある美術館。 当地には1914年(大正3年)に住友家本邸が建てられたが、後に住友家から美術館建設を目的に日本庭園「慶沢園」とともに敷地を寄贈され、1936年(昭和11年)に旧本邸跡地に開館した。 本館は伊藤正文と海上静一によって設計された。 1927年(昭和2年)12月から建設に着手したが、世界恐慌の影響で工事が中断したこともあり、10年近くの歳月を費やして1936年(昭和11年)4月に完成した。 鉄骨鉄筋コンクリート構造の地下1階、地上3階、塔屋1階付にして建築面積は4,033平方メートル、延床面積は12,716平方メートルである。 太平洋戦争突入後の1942年(昭和17年)には陸軍に接収され、戦争末期には高射第3師団司令部が置かれた。 1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)までは占領軍が接収したため活動休止を余儀なくされた。 美術館に併設している美術研究所は1946年(昭和21年)に創設され、素描、絵画、彫塑の実技研究を行っている。 同研究所からは白髪一雄、吉原英雄、村岡三郎など多くの作家を輩出してきた。 また、美術館友の会も組織されており、日曜洋画会などの活動を行っている。 1992年(平成4年)には公募展などの増加に対応するため、複数の美術団体展を併催できる地下展覧会室(4室)が増築された。 |