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VG槻輪
平成30年10月 活動予定

わがまち紹介
京都市中心部、歴史的建造物とともに現代を生きるまち
同志社大学今出川キャンパス・新島旧邸見学
京都市上京区

月    日 2018年10月18日(木)
集合場所 京都地下鉄今出川駅南改札出口
訪問先 同志社大学今出川キャンパス・新島旧邸
その他 1)雨天決行
2)一般参加者は会員を通じて申し込んで下さい。
3)今出川キャンパスのガイドを大学にお願いしています。
4)昼食は学食を予定しています。
4)新島旧邸は館のスタッフの方に質問方式で説明して頂けます。


京都市紋章

京都市上京区
京都の中心部の区で、国宝や歴史的建造物とともに、現代を生きる人々の暮らしが程よく調和し、今日の美しい京都の街に、旧平安京の面影を感じることができます。
京都市上京区を代表するものと言えば、「京都御所」があげられます。
上京区の北部は、「西陣機業地」として栄え、美しい「西陣織」は基盤産業のひとつとして、地域活性化施策の柱となっています。
また、京都五花街の中でも最古といわれる「上七軒(かみひちけん)」も有名な街並みのひとつです。
交通網は、京都市営地下鉄・烏丸線と市バスが主なものとなっています。
大通りから一本入れば細い道も多いため、徒歩や自転車で行き交う人々も多くみられます。
教育・文化面での特徴として、同志社大学、京都府立医科大学などの有名大学、京都市歴史資料館、埋蔵文化財研究所、考古資料館など、学術に供する施設が充実している点も挙げられます。

同志社徽章


同志社大学
同志社大学日本の私立大学である。
1920年に設置された。
明治六大教育家の一人である新島襄が同志社を創立してから143年。
新島襄(1843?1890)は、21歳で幕末の日本から密出国して渡米しました。
人びとが奴隷扱いされ、息苦しい封建社会に束縛されることに我慢ができず、自由と人権を求めての冒険でした。
留学中、キリスト教徒となった新島は、しだいにひとつの夢を膨らませました。
「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義教育を日本でも、という夢です。
10年振りに帰国した新島は、さっそく京都に同志社英学校を創立しました。
同志社とは、「志を同じくする者が創る結社」です。
その原点は、もちろん新島の志です。


同志社 良心館


今出川キャンパス
京都市中心部、京都御所の北側に位置し、名刹・相国寺に隣接した今出川校地は同志社大学の誕生の地であり、143年に渡る歴史そのものと言えます。
キャンパス内には、重要文化財が5棟あります。
また、古都の芸術・文化の伝統は、同志社大学の学問に独自の存在感を与えています。
この京都文化を実感する経験こそ生涯の財産と言えるでしょう。
新島襄・八重夫妻 新島襄の妻である八重は、新島とともに同志社創立に尽力した京都府顧問・山本覚馬の妹。
兄のもとに出入りしていた襄と出会い、同志社英学校の開校と同年の1875年に婚約、翌年に結婚しました。
結婚式は、京都では初となるプロテスタント式でした。
キリスト教主義の学校設立を快く思わない僧侶や神官から抗議や妨害を受ける襄を支え、男女を問わず同志社の学生たちに愛情を注ぎました。
男勝りの性格で知られ、時には非難を浴びることもありましたが、夫婦仲はとても良く、襄はアメリカの知人に宛てた手紙の中で八重の見た目ではなく人間性の美しさに触れ「私にはそれで十分です」と書いています。
襄の没後は、日本赤十字の篤志看護婦らの地位向上に献身し、新島宗竹という名で茶人としても活躍しました。
ツアーでは5つの重要文化財(彰栄館・同志社礼拝堂・有終館・ハリス理化学館・ クラーク記念館)と良心館にあるラーニングコモンズをご案内します。


啓明館(けいめいかん)[登録有形文化財]
同志社の2代目図書館としてW.Mヴォーリーズが設計し、卒業生などの寄付により1915年9月に書庫棟(西館)が、翌1920年3月に卒業生の山本唯三郎からの寄付により本館が竣工した1920年4月の大学令による同志社大学開校のシンボルとなる建物でした。
1957年には新書庫棟(東館)が増築されました。
2007年7月に登録有形文化財に指定され、現在は、人文科学研究所、同志社社史資料センター、施設部が利用しています。


アーモスト館[登録有形文化財]
1921年に創立100周年を迎えたアーモスト大学が、同志社に卒業生を送り出すプログラム「アーモスト・同志社プログラム」を開設しました。
その第1回学生代表であったS.B.ニコルズの母親やアーモスト大学の卒業生からの寄付により、W.M.ヴォーリーズが設計した建物で、1932年3月に竣工しました。
1962年にゲストハウスが、1979年に無賓主庵が寄贈されて、併設施設も充実しています。
現在は、主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として利用しています。
2005年6月に登録有形文化財に指定されました。

有終館(ゆうしゅうかん)[重要文化財]
当初は「書籍館」と呼ばれた同志社最初の図書館で、当時は日本最大の学校図書館であった。
資金は彰栄館、礼拝堂と同様にアメリカン・ボード(会衆派教会系のミッション)からの寄付で、設計者は同志社教員(アメリカン・ボード宣教師)のグリーン(D.C.Greene)である。
施工は礼拝堂も請け負った京都の棟梁、三上吉兵衛。
建物の平面は十字形である。
 図書館の役目を終えた際に、時の海老名弾正第8代同志社総長が「有終館」と名付けました。
1979年5月に重要文化財に指定されています。

クラーク記念館 [重要文化財]
B.W.クラーク夫妻からの寄付によって建てられ、1894年1月30日に開館いたしました。
当初は「クラーク神学館」として、神学教育と研究に利用されていましたが、現在の神学館の完成に伴い「クラーク記念館」と改名されました。
R.ゼールの設計によるレンガ造で、エントランス上部の欄間には、"Byron-Stone Clarke Memorial Hall"と刻まれており、夫妻の夭折した息子を今も讃えています。
本館にキリスト教文化センターがあり、教室のほか、クラーク・チャペルも備わっています。
1979年5月に重要文化財に指定されています。

ハリス理化学館 [重要文化財]
同志社大学理工学部の前身「ハリス理化学校」の建物として、アメリカの実業家J.N.ハリスの寄付(10万ドル)をもとに建てられた煉瓦造りの建造物。
竣工は明治23年(1890)。
煉瓦の積み方は長いものと短いものを交互に組み合わせたイギリス式です。
正面看板には「SCIENCE」と刻まれ、長く同志社の理化学教育の拠点であったことを今に伝えています。
設計者は関西を拠点に活躍した建築家A.ハンセル。
ハンセルは京都では平安女学院の明治館の設計を行い、他に神戸などにも作品を残しています。
1979年5月に重要文化財に指定されました。
現在は、同志社の歴史と創立者・新島襄の今に息づく精神を、貴重な資料によって紹介する、ハリス理化学館同志社ギャラリーとなっています。

同志社礼拝堂(チャペル)[重要文化財]
D.C.グリーンによる設計で、1886年6月に竣工したプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物です。
正面中央に円形のバラ窓、左右にアーチ窓を設け、その前に屋根と尖りアーチの入口を持っており、ゴシック建築の特徴が出ています。
1963年7月に重要文化財に指定されています。

彰栄館(しょうえいかん)[重要文化財]
アメリカン・ボードの寄付によりD.C.グリーンが設計した建物で、1884年に竣工しました。
レンガ造の洋風な外観に対して、内部の間仕切壁や小屋組など、構造形式は純和風になっています。
塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねており、毎朝の礼拝を告げる鐘の音は、明治以来、同志社中学校が岩倉キャンパスに移転するまで、司鐘生と呼ばれる中学校の生徒が担当していました。
 1979年5月に重要文化財に指定されています。

良心館(りょうしんかん)
文系学部の教育を京都市内に統合移転させるため、岩倉キャンパスに移転した同志社中学校の跡地に建築し、2012年10月に竣工した延床面積が40,000uを超える建物です。
教室、経済学部・経済学研究科の研究室・共同研究室、ラウンジ、食堂、購買、今出川キャンパス教務センター等がある複合施設であり、京都市営地下鉄今出川駅の改札口とは連絡通路で繋がっています。
 建物中央部の2階から3階にかけて日本の大学では最大級のラーニング・コモンズ(学生の学習支援を意図して大学図書館に設けられた場所や施設)を設け、また、4階全フロアが小教室と演習室になっています。
館名に用いた「良心」という言葉は、新島襄が『同志社大学設立の旨意』に、「一国の良心とも謂ふべき人々を養成せん」「所謂る良心を手腕に運用するの人物を出さんことを勉めたりき」と、同志社が行う教育として明確に記しています。
また、同志社各学校には『良心碑』があり、同志社教育のシンボルとして新島の想いを今日に伝え続けています。
21世紀における同志社大学の新しい教育体制の出発を象徴するこの建物に、同志社建学の精神を表す最も重みのある「良心」が用いられることとなりました。

新島旧邸
新島襄の私邸で、ボストンの友人J. M. シアーズの寄付によって建てられました。
この場所は同志社英学校が開校した際に仮校舎として借家した高松保実邸の跡です。
外観はいわゆるコロニアルスタイルの洋風ですが、造りの基本は和風寄棟住宅です。
間取りは日本的な田の字型であり、壁は柱を露出させる旧来の真壁造りとなっています。
床が高く、三方にべランダをめぐらし窓には鎧戸をつけ、白い壁面に茶褐色の木部を見せる簡素な二階建住宅です。
計者・施工者とも明らかではありませんが、当時の同志社教員で医師・宣教師でもあったW. テイラーの助言を得ながら、新島襄が設計したとも伝えられています。
日本人のために建てられた和洋折衷の木造二階建て住宅として、また、同志社創立者の旧居としての価値が認められ、昭和60年(1985)に京都市指定有形文化財に指定されました。

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