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VG槻輪
平成29年6月 活動予定

わがまち紹介
昆陽池から清酒発祥の地を訪ねる:伊丹市昆陽池・鴻池

月    日 2017年6月15日(木曜日)
集合場所 伊丹市昆虫館 入り口前 集合時間: 10:50
訪問先 伊丹市昆虫館、昆陽池公園、鴻池神社、慈眼寺、鴻池稲荷祠碑
1) 伊丹昆虫館   :11:00〜12:00
  伊丹昆虫館では学芸員の方に説明をお願いしています。
2) 昆陽池、鴻池神社、慈眼寺、鴻池稲荷祠碑他
  伊丹市文化財ボランティアの会の方にガイドをお願いしています。
その他 1) 伊丹昆虫館見学は雨天決行です。
2) 雨天の場合は、市内散策は中止します。
3) 一般参加の方は、会員に申し込み下さい。
4)伊丹市昆虫館の入館料が必要です。

伊丹市
大阪国際空港(当市にちなんで通称「伊丹空港」と言われることが多い)の滑走路の大半を擁する20万人都市で、大阪・神戸の衛星都市、ベッドタウンの一つとされています。
気候は温暖で、冬には昆陽池などにカモなど多数の渡り鳥が飛来する。
伊丹に関連の深い「猪名部」「猪名県」などは『日本書紀』に表れる。
古くは「摂津国」の「西摂」と呼ばれた地域。
市の名前は、摂関家領橘御園を鎌倉時代から管理していた伊丹氏の名に由来すると考えられる。


昆陽池公園案内図


昆陽池
8世紀前半に奈良時代の高僧行基が築いた池で,長い間地域の田畑を潤すとともに洪水を防いできました。
行基(668〜749年)は渡来系の氏族出身で,現在の堺市で生れました。
早くから出家しましたが,当時の国家仏教にあきたらず民間伝道をこころざし,摂津・河内・和泉・山城の国(現在の兵庫県と大阪・京都府)に49の寺院を建てたほか,信者の協力のもとに用水池や溝,道や橋,そしてを簡易宿泊施設である布施屋や,民のための寺である院をつくりました。
伊丹では,昆陽上池・同下池・院前池など5つの潅漑用水池や2本の溝をつくったほか,昆陽寺の前身となった昆陽布施屋を開き,多くの村人・旅人を飢えや病気から救ったと考えられています。
のちに東大寺大仏の建立に協力して大僧正となり,人々から菩薩と称えられました。
昆陽池はむかしから歌枕となり,和歌や俳句に詠まれて大変有名な池です。
藤原定家も有馬温泉へ湯治に向かう途中,昆陽池のほとりを通っています。
そのときの漢詩は次のようなものです。
新雨初晴池水満 恩波風緩楽豊年 遠松迎我如親故 群鳥驚人争後先 以下略 (『明月記』より抜粋) (しんうはじめてはれ,いけにみずみつ,めぐみのなみかぜ,ゆるやかにほうねんをたのしむ,えんしょう,われをむかえることしんこのごとし,ぐんちょう,ひとにおどろきてごせんをあらそう・・・) 江戸時代の絵図などでは周囲1里(約4キロ)とされる大池で,昆陽・寺本・池尻の3ヵ村が用水として利用していました。
この池は行基が造った池のうち昆陽上池にあたると考えられます。
昆陽下池は上池の西方にありましたが,慶長13年(1608年)に埋め立てられました。
昆陽池も昭和36年(1961年)に池の東側が埋め立てられ,約3分の2ほどの大きさになりました。
昭和47年から残りの池全体が野鳥公園として整備され,現在は憩いの場として多くの市民に親しまれています。


伊丹市昆虫館


伊丹市昆虫館
小さな命の鼓動が聞こえる伊丹市昆虫館は、兵庫県伊丹市の昆陽池公園敷地内にある日本の昆虫館です。
1990年に伊丹市の市制50周年を記念して開館した。
当初は財団法人伊丹公園緑化協会が施設の管理を行っていたが、合理化のため2013年(平成25年)3月末に協会を解散し伊丹市立となり、公益財団法人伊丹市文化振興財団が指定管理者として運営を担っている。
館長は初代は田中梓、2012年4月以降は奥山清市さんです。
 日本人は、世界でも珍しいくらいに昆虫と身近に生きている人種なのだとか。
「万葉の昔から書物に登場するし、昆虫で季節を感じます。
"一寸の虫にも五分の魂"なんて、昆虫の命の尊さを考えるのは日本人くらいですよ。
だからこそ、種類や生体を見るだけでなく、昆虫を通して自然の奥深さ、命の大切さなどを学んでほしい」と奥山さんは言います。
2011年(平成23年)には、東日本大震災により破損した岩手県の陸前高田市立博物館が所蔵する昆虫標本の修復作業を実施された。
 伊丹市昆虫館は緑豊かな昆陽池のほとりにある、1年中生きた昆虫と間近でふれあえる施設です。
チョウ温室では南国の花々が咲き誇る中を舞う、約14種1000匹のチョウの姿を身近に見ることができます。
また、昆虫の世界を10倍に拡大したジオラマや、珍しい世界の昆虫標本、図書コーナーなどもあり、虫や自然環境について楽しく学べます。


鴻池神社


鴻池神社
もとは蔵王権現を祭っていた社でしたが、明治十二年の神社明細帳作成時に、安閑(あんかん)天皇を祭神として安閑神社と改称され 更に大正期に、向かい合う慈眼寺の鎮守八幡神社を合祀して、鴻池神社と呼ばれるようになりました。
 祭神を決める際には、一般的には国家とのかかわりを重視し、天皇家と関係があるような祭神が選ばれたようです。
市内には24の神社がありますが、注目されるのは、この社と桑津神社が、アマツカミ系ではなく、古代の天皇とその甥を祭神としていることです。
古くからこの地に安閑天皇にまつわる何らかの伝承が伝わっていたことから祭神として選ばれたのではないかと推測されています。
 本殿は、一間社流造り(いっけんしゃながれづくり)で、覆屋に納められ、前面に拝殿をそなえています。
屋根は柿葺(こけらぶき)で、全体の構成や細部の手法は、近世初期の神社建築の特徴をよく伝えており、昭和50年県の有形文化財の指定を受けています。
彩色などの保存状態もよく、かえる股・木鼻(きばな)などの彫刻も伸びやかで流麗な感じを与えていますが、後世正面の扉は手が加えられ、扉構えとなっていますが、元は床下の古材から格子戸引き違えであったことが分りました。
 大正二年の覆屋修復の際に発見された棟札には「元禄六年(1693)二月二十二日」、「蔵王権現拝殿大破付今度山中氏依助力建立仕者也」、「橘氏大工 松原久右衛門」、「願主庄屋 荒西与三右衛門」と記されています。
山中氏は、この地で最初に酒の醸造を始めた後の鴻池家の先祖であり、拝殿建築に際して援助したことを窺い知る事ができます。
また、松原氏もこの地で代々大工を営んでおり、同じく、県指定の春日神社(口酒井)の棟札にもその名が残されています。
平成七年一月十七日未明に起きた阪神淡路大震災により本殿・拝殿は傾き、石造物にも被害が及び、日を経ずして拝殿は崩壊しました。
覆屋はその後復元されましたが、拝殿は平成八年九月十三日より再建のための工事を始め、平成九年春完成しました。


慈眼寺


慈眼寺
摂津名所図会によりますと、寺は修験道、真言宗から、正保三年(1646)に曹洞宗になり、池田・大広寺の弟子、嫩桂(どんけい)永昌が住職となって僊園山慈眼寺(せんえんさんじげんじ)と称しました。
明治三年、堅堂祚戒(けんどうそかい)和尚のとき、法地と認定され、寺の格が上がりました。
 本尊は、木造釈迦如来坐像で、建久六年(1195)、鎌倉時代初期につくられた像高51.8センチメートルの比較的小さめの仏像です。
この像は、腹前で両手を重ねて親指の先を合わせる「禅定印」の印相を示す釈迦如来で、左肩に袈裟をつるす紐を表すのは、鎌倉時代の作風に見られるものです。
像の表面はサビ下地に黒漆を塗り、さらに金箔を貼る漆箔が施されていますが、現在ではほとんど剥落しています。
昭和63年夏の修理の際、像内からおびただしい墨書銘が確認され、注目を浴びました。
 住職の話によると「本堂がきれいになったので、本尊さんだけそのままではと思い修理にだしたところ大変なことがわかりました。
そっと大事にして、これまで手を加えなかったからこそ貴重なものが残ってよかったのだそうです」とのことでした。
 銘文には、建久六年七月八日からこの像をつくり始め、願主は「生阿弥陀仏(しょうあみだぶつ)」という僧であることが記されています。
このほか、「一阿弥陀仏」など結縁者150余人の名が像内ほぼ全面と膝裏に書かれています。
像には仏師名が記されていないため、現在のところ造立仏師は不明ですが、慶派仏師のなかのすぐれた仏師であることは間違いなく、快慶が「安阿弥陀仏(あんあみだぶつ)」という名号を持っている例から、像内に書かれた阿弥陀仏名号のなかに仏師の名がある可能性も考えられ、今後の研究によって造立仏師が判明するかもしれません。
この像は、国の重要文化財(平成二年)に指定されました。


鴻池稲荷祠碑


鴻池稲荷祠碑
稲荷祠碑(いなりしひ)は、405字の碑文から成り、鴻池家(こうのいけけ)の生い立ち・伊丹の酒造りの歴史を知る手がかりとなるものです。
更に碑文作成の事情も併せて記されています。
 近世初頭、当地において酒造業を始めて財をなした山中家は、屋敷の裏にある大きな鴻池の名にちなみ苗字を鴻池と名乗り、大阪へ進出し、海運業・両替商を営み豪商鴻池家となりました。
碑文によると山中家は、尼子氏の亡将山中鹿之介の子として生まれた幸元を初代とし、慶長五年(1600)この地において、それまでの濁酒から清酒を造ることに成功します。
これを記念して邸内に稲荷祠を建て、守護神となし、一族そろっての参拝をかかさなかったと伝えられています。
 宝暦十三年(1763)秋の大風で壊れた祠を、天明四年(1784)に復旧した折り、その事情を残すため祠碑が造られました。
花崗岩の亀趺(きふ)(亀型台石)の上に「布貨(ふか)」(中国古代の貨幣)を型どった砂岩製の珍しい碑身が立っています。
碑文と書は、鴻池家が経済的に支援し、その発展に尽くしたの懐徳堂(かいとくどう)の教授・仲井履軒(なかいりけん)の手になるもので、寛政十二年(1800)ころと推定されています。
 稲荷祠碑は幕末に持ち去られ行方不明となっていましたが、明治年間に大阪市南区八幡筋の骨董屋の店先にあるのを鴻池家が買い取り、瓦町別邸内に移し更に昭和の初め当地に建て直されました。
 戦後は全く放置され一部が破損し判読不明になっていましたが、平成三年(1991)市の史跡に指定され、保存のため化学処理が施されました。

容住寺
旧荒牧集落のほぼ中心にある容住寺は、聖徳太子建立と伝えられる伊丹でただ一つの天台宗の古刹で、縁起によると、太子が大坂の四天王寺から中山寺に往還された折、この地の柳の下にある大石に腰掛け、憩いをとっていたとき、霊感を受け、「吾れ此の所に容(かたち)を住(と)め置きたし」と、お堂を建立して十一面観音を本尊とし、太子十六歳の像を安置して容住寺と号したと伝えられています。
南面する山門を入ると、正面に本堂があり、屋根は錣葺(しころぶき)で向かって左側には、手前から鐘楼、観音堂が並び、右側には庫裏の建物があります。
当寺の本堂は、方丈形式の堂を本堂にあてたもので、建立は棟札によって元禄九年(1696)とされ、八畳六室を二列に並べ、正面に一間の広縁、側面に半間の縁をとる形式で、中央の間に仏壇が造られています。
本尊の十一面観音座像は、伊丹に於ける最古の仏像と考えられ、高さ56.3センチメートル右手に水瓶を持ち、左手を胸前に上げる内ぐりの無い一木造りの像で、膝を左右に大きく張って安定感に富み、下脚部を内側へ強く曲げ、膝部に同心円状の衣紋(えもん)を表すなど、平安中期の仏像を示しています。
ただ、古い像であるため、後世に彫り直しや修理がなされるなど、平安中期の面影をややかいているのが惜しまれます。
 境内には「太子腰掛け石」がありますが、もと川原にあったものを移設したものです。
門前には聖徳太子が馬に乗ってきてつないだとされる「駒つなぎの松」の碑があります。
近くには太子が衆生を済度(さいど)せんと護摩を焚き名香を薫じた所といわれる「香の薮」の碑が、天日神社の東隣公園に建立されています。
諸人に仏の道を説いた川辺にちなんで名付けた「戒の川」は、少し東の現在の天神川です。

天日神社
天日神社は、荒牧の氏神で、集落の西北に鎮座しています。
荒牧は、天神川、天王寺川が流れ、北に長尾山があって、古くから開けた所で、神社の由来は、天が授けた土地という意味で天日神社といったと言います。
 創建はよくわかりませんが、社務所の庭にある古い手水鉢には貞享元年(1684)の銘があり、また、古い鳥居には宝永元年(1704)の銘があるので、江戸時代中頃には神社が存在していたとみてよいと思います。
 なお、昭和55年に社殿を改築したときに棟札が出てきたとのことですが、現在は所在不明となっています。
 祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)であると伝えています。
御神体は、鏡とも、石の玉であったとも言われています。
主な造営物として、正面奥に近年新しく建てられた鉄筋の拝殿、その奥に本殿があります。
この本殿は、向唐破風(むかいからはふう)つきの一間社春日造の建物で、屋根は、柿葺ケヤキの素木(しらき)造。
建立年代は不明ですが、細部の形式からみて17世紀から18世紀初期の遺例とされています。
 天日神社の地車は、明治23年、大阪住吉郡住吉の宮大工「大佐(だいさ)」の製作で、当時の金額で500円の製作費でした。
「大佐」とは、大工の佐兵衛に由来する名称で、安土桃山時代末期から昭和30年代までの永きにわたり摂河泉に君臨した宮大工で、泉州岸和田の地車工匠が、一目も二目もおく由緒ある名門大工であります。
この「大佐」製の地車は、住吉型と称され、主な特徴は、大屋根・小屋根の段差が大きく、柱に透かし彫りが施されています。
平成四年鳥居が新調されましたが、阪神大震災でこわれその後新しくなりました。

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