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VG槻輪
平成29年3月 活動予定

大阪市の中枢(ヘソ)のまち
大阪中之島

月    日 2017年3月16日(水曜日)
集 合 場 所 大阪市役所 1階市民ロビー
行  先 大阪市中央公会堂:集合時間:9:45 ガイド付き管内見学
 10:00〜10:30 大阪市役所、大阪府立中之島図書館
中之島 SOCIAL EAT AWAKE ソーシャルイート
適塾(適々斎塾)(国史跡・重要文化財)
その他 1) 雨天決行
2) 一般参加の方は、会員に申し込み下さい。(事前予約をして下さい)
3) 参加費用 2,2600円/人(ガイド料、スペシャルランチ、お土産セット・入館料)
4) 名札を持参下さい。

中之島
 中之島は、大阪府大阪市北区にある、堂島川と土佐堀川に挟まれた、東西約3km、面積723,266m2の細長い中洲です。
中之島の開発は大坂の陣後、大坂屈指の豪商、淀屋常安によって1615年(元和元年)に始まった。
淀川(現・旧淀川)本流の中洲であることに加えて、大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島には諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担った。明治になると、諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心としての役割だけでなく、国の重要文化財の大阪府立中之島図書館や大阪市中央公会堂(中之島公会堂)等の文化施設や大阪帝国大学(現・大阪大学)を始めとする学校や病院が市民の寄付などで建設され、近代商都大阪においては情報と文化の発信地でもあった。 ただし、明治時代の払下げから大正時代初期に現在の大阪市役所、中之島図書館、中央公会堂、また過去には豊國神社や裁判所(現在の大阪高等裁判所の前身)、旧陸軍関係施設があった時代もある中之島一丁目周辺は地籍図が混乱しており、土地の所有関係が不明瞭であることが問題でもある。
中之島近辺は大阪を代表するビジネス街であるが、官公署が多い東部に比べて西部の開発が遅れていた。 しかし近年、大阪大学と大阪大学医学部付属病院の跡地を開発して誕生したほたるまちをはじめ、大阪府立国際会議場や大阪市立科学館、国立国際美術館が立地する大阪の文化・芸術拠点となりつつある。京阪中之島線が開通したことでアクセスも改善され、周辺の再開発も活発になっている。
中之島公園は、都心部の貴重な公園となっており、バラ園が有名。またイベントも数多く行われており、中之島まつりやOSAKA光のルネサンスは毎年開催される。
旧ダイビルを解体した跡地にできたダイビル本館、中之島ダイビルをはじめ、新朝日ビルディングとフェスティバルホールを建替えた中之島フェスティバルタワーは竣工済みだが、大阪朝日ビルと朝日新聞ビルは解体され、中之島フェスティバルタワー・ウエストへ建替え中である。このほか、住友不動産による住友中之島ビルの超高層ビルへの建替え、京阪電鉄と大林組による外資系ホテルを誘致しての複合高層ビル(中之島四丁目再開発)も計画されている。

大阪市中央公会堂
公会堂の歴史について、中之島そして大阪市のシンボルともいえる公会堂。かつて、その誕生のために莫大な私財を投じながら、完成を待つことなくこの世を去った人物がいた。それが、「義侠の相場師」ともいわれた株式仲買人、岩本栄之助である。
 岩本栄之助は1877年(明治10年)、大阪市南区(現在の中央区)にあった両替商「岩本商店」の次男として生まれた。
小学校を出て進学した大阪市立商業学校を卒業後は、外国語学校などに通う傍ら家業の手伝いを始めるが、1897年(明治30年)に日露戦争に出征。除隊後の1906年(明治39年)3月に家督を継ぎ、正式に大阪株式取引所の仲買人として登録されることになった。
栄之助が仲買人となった直後の1906年(明治39年)5月、北浜の大阪株式取引所を日露戦争終結に端を発する空前の暴騰が襲う。株価は急騰し「買えば必ずもうかる」とささやかれた。 このとき、北浜の仲買人の大半は、いずれ暴落することを見越して売方に回っていた。しかし、株価の暴騰は止まらず、多くの仲買人は破産寸前の状況に追い込まれることになる。そこで彼らが頼ったのが栄之助であった。手堅く買方に回っていた彼に売方に転じてもらい、株価を下落させようとしたのである。買方として得た利益を吐き出してくれというこの常識外れの懇願を栄之助は快諾。「父親の代からお世話になっている皆さんへの恩返しだと思って協力しましょう」と答えたのである。
 この結果、翌年1月21日に株価は大暴落。売方である北浜の仲買人は破産を逃れ、莫大な利益を手にし、栄之助自身も大きな利益を得たのである。北浜の仲買人らは、「岩本さんには足を向けて寝られない」と感謝したと言われている。
栄之助が夢見た公会堂は、その死から2年後の1918年(大正7年)年11月に完成。現在は国の重要文化財にも指定され、いまなお市民の文化・芸術の活動拠点として親しまれている。

大阪府立中之島図書館
明治37年(1904年)2月、住友の寄贈になる「大阪図書館」(当時の名称)が 完成、開館しました。石造り三層、銅葺きのドームがそびえる重厚な建物で、建築を担当したのは、住友臨時建築部の少壮気鋭の建築家野口孫市(技師長)と日高胖(技師)。
住友家第15代住友吉左衞門友純(ともいと)は、江戸時代以来住友の事業が大阪を本拠に続けてこれた感謝のしるしとして、この図書館建物と図書購入資金を寄贈したのです。
さらに、本館が手狭になったため、大正11年(1922年)左右両翼部分を増築寄贈し、ここに今に見る「府立中之島図書館」が完成しました。
この建物は明治の名建築として、昭和49年(1974年)国の重要文化財の指定を受けました。 完成後約100年を経て、なお現役の図書館は、静かで便利な立地条件も手伝って、 研究者や本を愛する人たちに親しまれています。

適塾
蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学医学部及び慶應義塾大学の源流の1つとされている。 適塾の開塾二十五年、その間にどのくらいの入門生があったかというと、およそ三千人と伝えられている。緒方洪庵の門弟三千人の中で訳文、執筆の教訓を身をもって守ったものの第一は福沢諭吉である『福沢全集緒言』。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。これらは慶應義塾大学の「半学半教」にもよく現れている。福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。

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