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VG槻輪
平成28年2月 活動予定

“わがまち紹介”
水運で栄えた面影を今も色濃く残すまち:唐崎

月    日 2016年2月18日(木曜日)
集 合 場 所 港製器工業株式会社  集合時間:9:50
内   容 高槻市の製造工場見学 港製器工業株式会社
その他 1) 一般参加者は、会員を通じて申込み下さい。
2) 見学は製造工場です。
3) 小雨決行です。

高槻市唐崎地区
 淀川と芥川が合流するところで、広い川原を利用して放牧風景が見られた地区です。
この唐崎の「カラ」は別に「辛崎」家から用いられた、中国または朝鮮半島を表し、貿易港や交通の寄港地の名に多く見られます。「大阪府全誌」にも古代の唐崎の停泊した河岬に由来するとあり、三島一帯の地に住みついた秦氏、呉氏、辛(韓)矢田部、新羅人等々の大陸から渡来氏族に関係している地名と言えます。
40年前の唐崎の放牧風景
唐崎のような淀川沿岸の沖積地や中洲自然堤防は、古来より牛馬の放牧に利用されてきました。
「後法興院記」の明応元年(1492)年条に「摂洲中牧内辛崎村」とあり、この条によると辛崎村は近衛家(五摂家のひとつで公家)から奈良春日村に寄進された仲牧に含まれていました。
これ以前の建長5年(1253)の近衛家所領目録の「庄務本所進退所々」に摂津国沖牧が見えることから、この地は9〜10世紀の庄園増大期から摂関家(摂政・関白に任ぜられる家柄)の私牧のひとつとして、諸国から献上された馬牛が飼育され、兵馬や用役牛として使われたのでしょう。
江戸期になると、安定した社会情勢の中で淀川水運の一拠点として、脚光を浴びるようになります。
関ヶ原戦後、江戸幕府は京都・大阪を結ぶ淀川物流体系を把握するため、過書船の制(許可を受けて淀川を上下して貨物、乗客を運ぶ船)を設けます。唐崎浜は南の三島江浜とともに過書座(過書船関係の事務を管掌した役所)の荷問屋(諸物品の問屋業)として、年貢米の中継地となり、島上・島下の年貢米輸送に一手に行うことになりました。さらに高品物貨の輸送も扱います。
まず、大阪から来る品物は金肥(油粕・鰊粕など)、塩、木材、穀物、対馬砥などで、大阪へ送る品物は綿作物、煙草、?、油、竹皮などの農産物、富田の酒などでした。
江戸中期になると、大阪への荷物に杉粉(綿香の原料)、青物類、瓦などの高品作物が加わり、幕末になり上りの天草(原料)、下りの寒天(製品)が出現するようになる。
唐崎浜は「富田の外港」いわれるように、富田・茨木の町々及び安威川・玉川流域の村々と大阪・京都を結ぶ高品流通の集散地であったといえます。
洪水の多かったこの付近では、水や湿気から家を守るために段倉と呼ばれる家屋が多く建てられた。明治以降、大規模な淀川の改修工事がおこなわれ堤防の増高と拡幅のために三島江集落の移転などが実施されたことなどから、こうした建物は少なくなったものの、今も見ることができる。
昭和 25年(1950)ごろから地元の乳牛農家が組合を設け、この付近の淀川河川敷で乳牛の放牧をおこなっていた。
最盛期には約20軒の農家が100頭以上を飼育し、高槻市前島から摂津市鳥飼の付近までの広い範囲で放牧をしていたが、農家数の減少などで次第に見られなくなっていった。
唐崎付近は最後まで放牧がされていた場所で、昭和 55年(1980)ごろまでこうした風景が見られた。

港製器工業株式会社
昭和32年の創業、土木建築用金物・船舶の荷役用金物からエクステリア用金物にいたるまでの、幅広い金物製品の総合メーカーとして金属加工をされています。
まず何よりも品質第一と考え、環境の目まぐるしい変化にも迅速に対応できる企業体制の確立こそ使命とされ、広範なニーズを適確に捉え、常に新しい製品の研究・開発に努めておられます。
東日本大震災の復興支援として、被災児童に学習環境をと、被災した子供たちに学習用机と椅子を送る支援活動をされました。
僕たちの生活の中にも社の製品が使われていると思います。その製造現場を見学したいと思い計画しました。

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