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VG槻輪
平成27年10月 活動予定

“わがまち紹介”
"日本を代表するほどの巨大な別荘の集まり京都南禅寺界隈":無鄰菴

月    日 2015年10月15日(木曜日)
集 合 場 所 京都市営地下鉄東西線蹴上駅 改札出口 集合時間:13:00
順    路 蹴上駅 →蹴上発電所 →蹴上インクライン →琵琶湖疏水記念館  →無鄰菴庭園 →京都国際交流館 →蹴上駅
訪問先 琵琶湖疏水記念館・無鄰菴庭園
その他 1)一般参加者は会員を通じてご連絡下さい。
2)入園料:410円必要です。
3)時雨決行です。前日の午後6時のNHKの天気予報で別途連絡します。

蹴上発電所
 1891(明治24)年に、米国コロラド州アスペンの水力発電所を参考にした日本最初の水力発電所である「蹴上発電所」が「琵琶湖疎水」 (1890<明治23>年4月竣工)の豊富な用水を利用して蹴上に完成し、1891(明治 24)年11月に送電を開始しています。ここで発電された電気は京都市内の時計工場や紡績工場に動力用電力として供給され、インクラインの運転動力もこの 電力を利用しています。また、1895(明治28)年2月に開通した京都電気鉄道・伏見線(日本で最初の市街電車)にも電力を供給するなど、新しい産業の 振興に大きく貢献し、京都市発展の一大原動力となりました。
蹴上インクライン
琵琶湖疏水は京都と大津間の船の輸送を用途の一つとしていたが、落差の大きい場所は船が運行できないので、台車に船を載せて上下させるインクラインで運行していた。
蹴上インクラインは蹴上船溜りと現在の琵琶湖疏水記念館前の南禅寺船溜りを結ぶ延長640メートル、敷地幅22メートル、勾配15分の1の路線で、運転用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転した。通過時間は10分から15分だった。
2015年5月23日(土)朝日新聞Be7にも記載されています。
琵琶湖疏水記念館
 琵琶湖疏水の水を京都へ引くことは,昔からの京都の人々の願いでした。
しかし,土地を正確に測って図面を作成したり,長いトンネルを掘るには十分な技術がありませんでした。
琵琶湖から水を引く計画を実現させたのは、第三代京都府知事に就任した北垣国道でした。
北垣は,幕末の戦災と東京遷都により衰退した京都を復興させるため、琵琶湖疏水を計画しました。 琵琶湖疏水は、大津市三保ヶ崎の琵琶湖取水口から山科・蹴上を経て京都市内に通じる運河で、明治18(1885)年6月に着工し、同23年4月に第一期工事が完成しました。
総工費は約125万円で、同時期の京都府の年間予算の約2倍でした。
水路は蹴上で二つに分かれ、鴨東運河により岡崎・夷川船溜を経たのちに鴨川出合いに至る幹線と、東山を北 上し洛北地域を迂回して小川頭に至る枝線(疏水分線)に分かれています。
 ここでは,琵琶湖疏水の計画と建設の過程を示す資料を展示しています。その中でも疏水建設の中心となった北垣国道のほか、測量技師の島田道生,土木技師の田邉朔郎を取り上げています。田村宗立と河田小龍の絵画は、琵琶湖疏水の工事の様子を生き生きと描いています。
無鄰菴
 無鄰菴(むりんあん)は、明治の元勲といわれた元老・山縣有朋(やまがたありとも)の別荘の一つで、この名が付けられた別荘としては3代目にあたります。最初の無鄰菴は山縣の出身地山口県に、次の無鄰菴は京都市中京区に作られ、最後がこの南禅寺の傍らに建てられました。初代の無鄰菴はすでに失われ、2代目は所有者が変わり、改修を受けていますが、現在も残っています。
 今の無鄰菴の敷地を山縣が入手し、実際に作庭が行なわれたのは、明治27〜29 年(1894〜96年)にかけてです。政治家・軍人であった山縣はなかなかの数寄者で、ことに庭に関しては自分の好みにとことんこだわった人のようです。 この無鄰菴も明治時代に新たな様式で作られた近代庭園の先駆けともいえるものになっています。
この無鄰菴の作庭工事にたずさわったのが屋号「植治」こと7代目の小川治兵衛 (おがわじへい)です。植治は先に平安神宮神苑の作庭にたずさわり、その名が知られ始めたばかりでしたが、山縣は植治に庭作りの構想と施工について指導 し、植治もそれに応えて様々な技術を身につけ、以後多くの近代の名園を作っていく契機となりました。
 第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。南禅寺界隈別荘の一つ。敷地は三角形の形状で、広さ約3100平方メートル。現在は1941年に寄贈されて京都市が管理している。その庭園は1951年(昭和26年)6月9日、国の名勝に指定された。
 山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。
この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられた。琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工する。京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っていた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となったのである。無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを引き受けることとなった。
 広い庭園は山縣が七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもので、山縣三名園に数えられる。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった。
無鄰庵会議
 無鄰庵の洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。
日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。 その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎である。 当時、ロシアは強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめていた。
桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとしたのである。 徳富蘇峰は『公爵山縣有朋傳』で桂の意図を以下のように著述している: 桂は、一方には此の報告あり、他方には露國の北朝鮮経営の警報に接したので、此際対露政策を決定するの、最も急なるを痛感せざるを得なかった。而して桂が小村と謀り、公の黙契を得て決定したる方針は、露國の満州に於ける条約上の権利は之を認むるも、朝鮮に於いては、彼をして我が帝国に十分の権利あることを認めしむるにあった。然かも我にして、此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からずと云ふにあった この時桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤と山縣から同意をとりつけた。以下はその時の「対露方針四個條」である: 露國にして、満州還付条約を履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露國に抗議すること。 満州問題を機として、露國と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。 朝鮮問題に対しては、露國をして我が優越権を認めしめ、一歩も露國に譲歩せざること。 満州問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。 この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉の方針は、山縣、伊藤、大山、松方、井上に、桂首相、下村外相、山本海相、寺内陸相が出席した6月23日の御前会議に提出され、上の方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認された。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まりつつあったが、元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局を避けようと模索していたのである。

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