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VG槻輪
平成26年8月 活動予定

わがまち紹介
"吹田の名水を求めて!! 工場見学"
アサヒビール吹田工場

月    日 2014年8月7日(木曜日)
集 合 場 所 JR吹田駅 東改札出口 10:00集合
・JR吹田駅 → 東改札出口 → 北出口 → 府道14号線 へ出る。→ アサヒビール迎賓館・先人の碑 → アサヒビール吹田工場
・アサヒビール吹田工場 見学ロビーには、全員10:50集合下さい。
その他 1) 見学は、11:00〜12:30を予約しています。
2) お子様に同伴は歓迎です。

 千里丘陵には豊かな伏流水が流れています。
吹田には、三名水と呼ばれる泉殿宮の湧水、垂水神社の滝、佐井の清水があります。
現存するのは垂水神社境内の「滝」(水量は随分と少なくなった)の一ヶ所のみです。
( 高槻市では、富田の伏流水で作った、富田のお酒は有名で、毎年全国新酒鑑評会で入賞しています。昨年度は、「清鶴酒造:ふりーらん」と「國乃長 あやめさけ 蒼庵」が金賞受賞の偉業を成し遂げています。
泉殿宮(いづどのぐう)は、アサヒビール吹田工場の西に鎮座する神社です。
古来は宇迦之御魂大神のみを祀っていた。貞観11年(869年)に当地が長く旱魃に見舞われた際、折りしも王城の守護神として平安京に迎えられようとしていた建速須佐之男大神の神輿が当宮に滞在していた。里人は建速須佐之男大神を相殿とした上で降雨を祈ったところ、たちどころに驟雨がもたらされ、旱害から救われた…と伝えられる。
またこの時、境内に清水が湧出したという。湧水は昭和30年代に枯渇したが、境内に残る「泉殿霊泉」はその遺構とされる。
アサヒビール『先人の碑』
 アサヒビールは1889年(明治22年)創業の、歴史ある会社です。したがって社歴の中に多くの「先人」を持っている。これを後輩たちが顕彰したのが「先人の碑」である。
1986年社長に就任した樋口廣太郎氏は、業界ダントツであったキリンビールに追いつき、追い抜く決意を固め、翌年「スーパードライ」を発売。これが、空前の大ヒットとなり、ついにキリンビールを抜いた。1988年に吹田工場前に「先人の碑」を建てた。
二本の白御影石が、天に向かってカープする黒御影石の翼を支える形になっていますが、この二本の柱は関係業界の諸先達先輩を象徴し、柱に支えられた翼はグループ全体の社業の発展を表現しています。
アサヒビール吹田工場
 明治22年(1889年)泉殿宮の清水は、ミュンヘンにて「ビール醸造に最適」と評価され、大阪麦酒(現在のアサヒビール)が当宮付近に進出した。
大日本麦酒は、1906年9月に、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本麦酒(恵比寿ビールを製造していた)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)が合併して誕生した。
日本麦酒の馬越恭平社長(三井物産重役)が中心となり実現したこの「大合同」により、合併時の市場占有率は約7割に近づいた(エビス、サッポロ、アサヒの商標で1935年市場占有率65%)。合併前の厳しい市場競争で三井系の日本麦酒の経営が危機に陥りかけたため、馬越恭平は内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。
その後、1907年に東京ビールを製造していた東京麦酒を買収。
1933年には日本麦酒鑛泉(ユニオンビール・三ツ矢サイダーを製造販売。
根津嘉一郎経営)を、また1943年には桜麦酒(サクラビールを製造販売。1939年に帝国麦酒から社名変更。旧鈴木商店系)を合併した。
第一次世界大戦の戦後処理として、ドイツ租借地であった中国・青島が日本の管理下におかれたことを受け、ドイツ資本によって建てられた青島ビールの経営権を1914年に取得し、1945年まで大日本麦酒が自社工場として経営した。
戦後の1949年、財閥解体のあおりを受ける形で過度経済力集中排除法の適用を受け、朝日麦酒(現アサヒグループホールディングス)と日本麦酒(現サッポロホールディングス)に分割された。
創立委員の一人が自身の出身地になぜ工場を造らなかったかと問われたとき、「水質や鉄道を考えたからです。
」と答えたという話があります。
良質な水を確保できるという環境と交通の要地であるという条件がビール工場建設用地選定に大きく関与したことがわかり、ビール醸造という近代産業が立地する条件に吹田がいかに適応した地であったかを示しているといえるでしょう。
見学時間は他の工場見学より30分多い90分ですが、工場全体を説明して頂くので長く感じないと思います。

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