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VG槻輪
平成26年6月 活動予定

わがまち紹介
“竹林・田畑・水の音・・・変わりゆくまちで、旧き面影を辿るまち”
旧春日村・服部緑地

月    日 2014年6月19日(木曜日)
集 合 場 所 桃山台駅(北大阪急行)駅改札南出口
順 路 桃山台駅  → 桃山公園(春日大池) → 春日神社 → 旧春日村 → 服部緑地(緑地公園)
その他 1)「吹田まち案内人」の方のガイドをお願いしています。
2)コースはガイドさんと協議して変更することが有ります。
3)一般参加の希望者は、VG槻輪の会員を通じて、事前に申し込んで下さい。
4)前日夕方6時NHKで当日(19日)午後の降水確率60%以上の場合は中止します。

◇桃山公園
北大阪急行桃山台駅のすぐ南側に位置する大きな公園です。小さな花壇やたくさんの樹木、「大阪みどり百選」に選ばれた竹林が、噴水のある春日大池を囲むように広がっています。花は「フラワーメイト」、竹林は「千里竹の会」のボランティアの皆さんが世話をしています。ラクウショウの木(別名:ヌマスギ)が沢山あり、一見良く似たメタセコイアも数本あります。
いずれも背の高い落葉の針葉樹で、原産地では30m以上に達します。メタセコイアは生ける化石といわれ、1945年に中国の湖北省と四川省の境の奥地で発見され、1949年にわが国に持ち込まれました。ラクウショウの根は特徴的で、‘膝’と呼ばれる気根が、地面のあちこちから突き出しています。この木の違いをじっくり探してみましょう。ケヤキ、モミジ等の樹木調べも楽しいです。
◇春日大池
春日町は、かつて下新田村と呼ばれ、新たに開発されて成立した村です。開発は江戸時代初め頃から山田村や佐井寺村の人々によって徐々に行われていたともいわれ、寛永3(1626)年に山田村・上・下両新田村の境界が決められ下新田村が成立しました。山林を切り開いての開発であったため水の確保に苦労したようで、灌漑はため池に頼らざるを得ませんでした。現在の春日大池は「字玉子谷溜」と古文書にあるため池と推定され、既に寛保3年(1743)には存在していたようです。こうしたため池は明治中頃までに200カ所を越えたといわれ、田畑の開発と水の確保に努力 した村人の願いを今に伝えています。
◇旧春日村
かつて下新田村と呼ばれ、江戸初期に山田村や佐井寺村の人たちによる、新田開発によって寛永3(1626)年に成立した村です。
山林を切り開いての開発のため、水の確保に苦労したようで、灌漑はため池に頼っていました。現在の春日大池(桃山台2)は寛保(1743)年には存在していたようです。豊中市境界を成す千里緑地の雑木林・竹林内には入れませんが、集落内には、生垣や庭木を配した旧い造りの家が今なお点々と残されています。
緑地とその周囲の田畑や果樹園などに、この地の原風景を見ることができます。
◇春日神社
千里緑地内にあり、古い記録には1648年創建とある神社で、こけら葺の社殿もあります。
境内の鳥居、灯篭、手水鉢などには江戸時代の年号が刻まれています。見事な神社林に覆われたけ境内は、周囲より少しひんやりとしています。下新田村の産土神で、昭和28(1953)年に下新田村が吹田市との合併にあたり、この神社の名前にちなんで旧下新田の地域を春日としたといいます。春日神社は元禄5(1692)年の記録によって、慶安元(1648)年の勧請であることがわかります。伝承で は下新田村の開墾が主として佐井寺村の人によって行われたことから、佐井寺村の氏神を勧請したため、春日明神を祀るようになったといわれています。境内で は、かつて日照りが続くと村人が集まり雨乞いを行ったといいます。
◇西照寺
 元禄5(1692)年の記録に「寛永8(1631)年門徒共」開基とあり、寺は 下新田村が成立して間もない頃に開かれたとみられます。ただ、寛永14(1637)年の記録には「惣道場」と記載され、まだ西照寺とはいわなかったようです。元禄5年には西照寺と記録されていますから、本尊が授与されたという延宝7(1679)年に西照寺と名乗ることが許されたのではないでしょうか。村の成立とともに、浄土真宗寺院が村の道場から始まり、やがて本尊をうけて寺となっていくという真宗寺院成立の過程を伝えています。
◇春日の地蔵(地現地蔵)
この6体の石仏は、嘉永2(1849)年に5月の大雨の時、水田から掘り出されたといいます。四方講という地蔵を祀る組織がつくられ、現在は春日地蔵講と名が改められて、お祀りを続けています。嘉永2年に掘り出された経緯を記す文書、安政6(1859)年に お堂の敷地が講に譲り渡された文書などが残され、地蔵を祀る講組織のことがわかります。現在も年番制で「トヤ(トウヤ)」という、その年のお祀りを主宰する2家が決められ、毎年8月24日に地蔵盆と盆踊りを行っています。かつてはトヤが文書や祭具を納めた木箱を保管したといいます。
◇下新田新道記念碑
下新田村は山あいの盆地を開墾して成立した村であったため、他村へ行くには山を越える道や高川沿いの道をとっていました。これらの道は人がやっと通ることができる程度の細い道であったといいます。大正から昭和初期の千里山地域の開発や鉄道の敷設に刺激され、下新田村発展の契機とするため、昭和4(1929)年に千里山へ抜ける新道がつけられることになりました。この碑からは、他地域に出るのが難しいという村の立地状況のなか、人力による難工事にもかかわらず多くの苦難を乗り越えてつけられた新道に村の発展を託した人々の気持ちがよみとれます。
◇桃山台水路
南千里交差点から府道吹田・箕面線沿いに南下する川で、桃山台4丁目から新御堂筋の下をくぐり、南に向きを変えて春日村、さらに服部緑地の東側を通過し神崎川に注いでいます。農業用水路として活躍してきたと同時に、他村へは、山越えの道か、この高川沿いの道が利用されていましたが、人がやっと通れる程度の細い道であったようです。
◇吹田市立桃山台小学校
吹田市教育委員会は2010年、竹見台中学校と吹田市立千里たけみ小学校・吹田市立桃山台小学校の3校を連携型小中一貫校へ改編する構想を明らかにした。
2011年に、吹田市立竹見台中学校・吹田市立桃山台小学校・吹田市立千里たけみ小学校の3校の既存の施設をそのまま使用する施設分離型の小中一貫教育校「千里みらい夢学園」を発足。3校は校舎統合などはおこなわずに従来の校地で教育活動を実施する一方、小学校6年の児童が週1回中学校に通学して授業などを受けている。吹田市での小中一貫校の設置は初めてとなる。
◇服部緑地公園
1928年(昭和3年) 大阪府が竹林、溜池の点在していた土地を買収、造園。
財団法人大阪府公園協会が管理を行っている。面積は約126.3ヘクタールで、甲子園球場33個分(東京ドームなら27個分)という広大な敷地を有する。
緑地内には緑豊かな自然のほか、「山ヶ池」など10以上の池や遊具が点在しており、春から秋にかけては花見などの行楽客で賑わう。
園内のほぼ全域が風致地区に指定されており、日本の都市公園100選や日本の歴史公園100選にも選出されている。  千里丘陵の西側に位置し、ゆるやかな起伏に富んだ園内には、竹林や松林のほか、10数個の池が点在。都市緑化植物園、日本民家集落博物館、乗馬センター、野外音楽堂、陸上競技場、テニスコート、ウォーターランドなど多彩な施設がそろい、北大阪地域のスポーツ・レクリエーションの拠点となっています。
  ◇服部緑地公園 植物園
「見る、触る、香る、聞く、味わう」の五感でハーブを楽しめるハーブ園、約450種1300本の椿が確認されている椿山のほか、四季の庭や紅黄葉樹林など、花と緑あふれる安らぎと癒し、レクリエーションの空間。
◇日本民家集落博物館
日本民家集落博物館は、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示する為に1956年(昭和31年)に日本で最初に設置された野外博物館です。
大 阪府豊中市の服部緑地公園の一角で梅、桜、竹、柿、その他多くの樹木や草花に囲まれた約3万6千m2の敷地内に、北は岩手県「南部の曲家」から南は鹿児島 県「奄美大島の高倉」まで11棟の民家を集めています。いずれの民家も17〜19世紀(江戸時代)に建築され、昭和30年代まで人々が生活を営んでおられ たものであります。その他に奄美大島・山陰のクリ船、堺の風車なども展示しております。
各民家は、地方固有の風土・習慣から生まれた特色を色濃く 残し、景観的に優れたものであります。そこには、その土地の自然を活かし、調和を図りながら生活を営んでいた人々の知恵が随所にうかがえます。それぞれの 暮らしぶりは時の流れを超えて、いまに生きる私たちに、大切なメッセージを静かに語りかけてくれる。

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