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VG槻輪
平成26年4月 活動予定

わがまち紹介
“資源を大切にし、自然と生活の調和したまち"樫田地区(二料)

月    日 2014年4月17日(木曜日)
集 合 場 所 二料山荘
順 路 専用バスを回します。 JR富田駅前北 10:00 → JR高槻駅南 → 浦堂バス停 → 二料山荘
その他 1) 2014年度の総会を開催します。
2) 総会後親睦会を開催します。
3) 総会の詳細は追って連絡致します。

 二料は、高槻市最北部にある自然豊かな樫田地区に位置し、都会の喧騒を離れ、標高360mの田能盆地を中心に、周りを山々に囲まれた農山村のたたずまいが、今に残る自然豊かな地域です。
 樫田地区は、京都府の南西部、南桑田郡に属していた樫田村(かしだむら)であった。現在は大阪府高槻市樫田地区です。
 明治時代の町村合併により、田能村・中畑村・出灰村・杉生村・二料村が合併し、樫田村が発足した。地域にある樫船神社の「樫」と、母体となった村の一つ・田能村の「田」を組み合わせて「樫田」の村名が名付けられた。
 南桑田郡内18町村合併構想を受け、郡内の他町村が亀岡市への合併参加を相次いで表明する中で、樫田村は村を挙げて、地勢的・経済的に結び付きの強い大阪府高槻市への合併を要望した。遠因の一つとして、府境と分水界の不一致および樫田村を襲った再三の水害発生後の、京都府の冷遇対応が挙げられる。そのためか住民の八割が高槻市への合併に賛同したという。
 1958年4月1日、高槻市と府を越えた合併をした。この越境合併をする前は地図上では府境が平らになっていたが、合併後は大阪府高槻市北部が凸形になり、京都府南西部は凹形になった。
樫田地区の中央を流れる田能川は市域を流れる芥川最上流の支流のひとつで、川沿いを丹波街道が通っています。
 樫船神社は、盆地最奥の尾根上に、神宮寺は田能川東岸の山裾に位置し、あたかも、地域を見守るかのように立地しています。
山裾沿いには、平安時代初期(9世紀)から鎌倉時代(13世紀)にかけて営まれた建物跡や炉跡で構成する屋敷などの建ち並ぶ集落跡が発見されています。 また、樫船神社西方には臨済宗妙心寺派の桂香寺があり、その裏山を城山と呼んでいます。城山には石垣や井戸などが散見でき、明智光秀が居城した亀山城の支城であった田能城跡と伝えられています。
 鎌倉時代初期の丹波国桑田郡田能庄は七条院(後鳥羽院の母)領のひとつで、安貞2年(1228)の七条院処分目録案には、修明門院(後鳥羽天皇の妃 藤原重子)へ譲られたとあり、皇室領荘園として維持されていたことがわかります。
 田能庄鎮守樫船神社、その神宮寺ともに創建時期は不明ですが、神社に伝えられている棟札によると、貞応元年(1222)庄民たちは僧定勢の指導により、 社殿の造営と神像・仏像の造立を計画し、願主を募り、貞応元年9月に社殿が完成、翌貞応2年3月(1223)に五体の神像・仏像もできあがったと記されています。

 「二料山荘」は、元造り酒屋「大西屋」の酒蔵と母屋を改修しており、酒蔵棟には、大広間や食堂、事務室など、また、江戸時代末期の建築といわれる母屋には和室や茶室などがあります。
大西家では、明治時代中頃から「福久泉」、「共栄」などの地酒を醸造していましたが、戦時統制によって昭和18年に閉鎖されました。

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