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VG槻輪
平成24年6月 活動予定

わがまち紹介
"日本食に欠かせない豆腐と蒟蒻を知ろう":旧田中村(茨木市)

月    日 2012年6月21日(木曜日)
集 合 場 所 高槻市立小寺池図書館前  10:20
順路 小寺池図書前から車で分乗し旧田中村(伏見屋)へ
その他 1)伏見屋の工場見学には人数制限があります。
   見学希望者は会長までお申し込み下さい。
2)伏見屋の工場見学は11:00から12:00(予定)(10:50に現場集合)

若現在の茨木市田中町は住宅地になっていますが、明治時代は茨木北市場といわれ、食品、衣料、雑貨などいろいろな商品の卸売や小売店舗、旅籠や料理屋などが林立する商業集積地として活況を浴びていた地域です。
碑 田中村には天満宮と寺院光得寺が存し、一ケ村、一宮・一寺の慣例に従った村の構成で現在に至っている。
昌泰4年(901年)1月25日、菅原時平の謀略により九州大宰府に左遷され、都落ちした菅原道真がその途中、宿泊した跡に現天満宮が建てられたと伝わる。
菅原道真が都を離れるときに詠んだ和歌は今も人々の心に残る『東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな』。<田中天満宮宮司久角(ひさずみ)家の息女でホトトギス同人である堀恭子さんが菅原道真に思いをはせた句碑『大前へ 一直線に東風かよふ』が社内に立っている。

伏見屋
伏見屋のはじまりは、古く江戸時代までさかのぼります。
京都の伏見から来た、屋号を「伏見屋」と名乗るこんにゃく屋が、高槻市富田町にある本照寺の門前で商いを始めたことがはじまりです。
その後、伏見屋は明治24年に本照寺の門前から茨木市田中町に移り現在に至っています。
茨木に移って来た時の当主、上田鹿之助元吉の代から現在まで5代に亘り、こんにゃく、豆腐づくりに専念してこられた。
豆腐工場の周辺は、今は緑地帯となっていますが茨木川(元)の一番上流に当り、ゆたかな伏流水に恵まれた場所で、昔は染物屋や造り酒屋など、きれいな水を多く必要とするお店が軒を並べていました。
浅井戸からは、今も当時のままのおいしい水が湧き出ています。
現在では、さらに水質の良い地価85mからくみ上げた水で豆腐を作っておられます。
んにゃくや豆腐は他の食品のように明らかな味の違いがわかりにくい食材です。
歯ざわり、風味、香りなど個々に見るとそれぞれ違いはあるのですが、それはわずかな違いでしかありません。
そのわずかな違いを求めて、厳選国産大豆・厳選国産こんにゃく芋など材料にこだわり、水にこだわり、品質管理にこだわり、「伏見屋の商品はちょっと違うね」の一言に向け、様々な試行錯誤を繰り返して来られた。
伏見屋の百十余年は、この「わずかな違い」を求めての百十余年であったとのこと。
こんにゃく
こんにゃくは6世紀中ごろに日本に伝えられたといわれ、江戸時代にはおでん、田楽をはじめとして、物見遊山の食膳には欠かせない食材として珍重されました。
いま日本で「こんにゃく」と呼ばれる食品は、広く全国で日常的に食べられている。
おでんや煮物に用いられるほか、刺身やステーキのようにして食べる料理法も考案されている。
豆腐
 豆腐の歴史は非常に古く、約二千年前に中国で考え出されたものだとされています。
その頃の中国は「漢」という時代で、当時の准南王劉安により発明されたという説が有力です。
三国志にも登場する項羽と劉邦は有名ですが、その劉邦の孫が劉安です。
この説には不確かな部分があり、正式な記録は残っていませんが、現在はこの説が有力だとされています。

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