古今東西
目次へ 前回の便り次の便り

城北公園で戦後70年のスタート

 今年も造幣局の桜通り抜けの記事が出たので、遂に出かけた。いつも混雑のニュースが伝わってくるので、敬遠していたが、戦後70年の節目に城北公園散策を兼ねて、4歳年上の姉と出かける事にした。私は昭和15年都島区生まれで、母の話に、近くにあった造幣局や砲兵工廠や藤田男爵別邸が良く出てきた。それが昭和20年6月7日の大阪大空襲で一瞬のもとに地域一帯や私の家族は奈落の底に落とされた。家の前にあった防空壕で耐えられなくなって、母は私を背負い、街中を逃げまどった後、旭区の城北公園にやってきた。何処をどう走ったか、聞いておくべきだったが、もう誰も聞く人はいない。憶えている事といえば、逃げる途中、白い夏布団を私に掛けてくれていたのが、敵機に目立つと誰かに言われ、捨てた事、気味の悪い真っ黒な空からB29の襲撃と稲妻より太い焼夷弾の火柱、さらに城北公園から桜宮小学校で夜を過ごし、翌日家に帰るとまさに焼け野原だった。その1日の出来事を忘れられず、小学生の間トラウマのように私を襲った。
今回同行した姉は小学校3年生で石川県に集団疎開に行っていたので、大空襲には逢っていない。当時明日生きている保証はないし、むしろ死ぬ思いの方が強く、母が「死ぬなら家族みんな一緒に」と望み、兄が2日後に疎開先まで姉を迎えに行って、帰って来たのが池田だった。福井の駅から黒い塊を多くみて、兄が福井の空襲で亡くなった人達と説明しながら、大阪はもっとひどいと云ったらしい。その兄は9月1日入営が決まっていた。当時自宅が焼けようと、入営は免れる事は出来ず、命を失くしていたかもしれない。私と母がいた城北公園もT−2時間後さらに続くB29の襲撃を受け、その地帯にいた人達全員亡くなり、5年後整備時お母さんの遺骨が見つかったという手記を読んだ。私の父は昭和19年病気でなくなり、祖父をかかえた残る家族は母の勇気と8月15日の決断で危機一髪を脱した。
城北公園は造幣局からタクシーで10分、庶民的な町並みの中にあって、静まりかえっている。先ほど訪れた造幣局の賑わいと比べ、憩う人はいず、噴水の池の周りには八重桜が美しく咲き競っている。菖蒲園開園の時だけ賑わうのだろうか。ここから私の戦後70年の歴史は始まった。忘れまい、伝えねばと思いつつ、記憶の穴埋めをしてくれる人はこの姉しかいない。せめて当日女学校に通学していた7歳上の姉に詳しく聞いておくべきだったが、余りにも衝撃的な思い出を進んで話したくなかったのだろう。私もやっと70年後にしてタイムスリップし、書き残さねばと思った。次の世代には平和な時代への思いと願いを伝えねばならない。
2015年5月6日
記・写真 上村 サト子               
このページの先頭へ戻る