“ 昔昔の電話の話 ” 万博では、アメリカ館、イギリス館などと並んで、電気通信館が開設され、テレビ電話や携帯電話のデモンストレーションが行われ、私たちは大勢の人波に呑まれながらそれらの展示をとても誇らしく思いながら見学しました。 私が就職した頃の大阪の電話は半分くらいは手動式局でしたが、加入者台、公衆電話台ではお客様から呼びがあると、交換手が点火しているランプの下のジャック(穴)にコードを挿し「何番へ」と言います。これは明治に開業したときからそうだったようで、「何番へお接ぎしましょうか」ということだったと思います。「何番へ」と歌うような調子でアクセントはつけず、「ナ・ン・バ・ン・へ」と平板に発音します。 その頃応対用語の競技会があって、各分局から選手が出て競い合うのです。 「何番へ」「ありがとうございます」「どちらへお掛けになりますか」などの用語の審査があります。また度数計算競技というのもありました。これは当時電話料金はそれぞれの加入者ごとに設けられた度数計があってそれを2人1組で1人が読み上げ1人が記入します。1分局は4桁の番号ですから9999番まであり約1万件を調査、計算していました。実際に稼動しているのはそのうち7・8割くらいだったでしょうか。私は度数係にも在籍したことがありますが、毎月そうして電話料金を算出していました。そうして前月分から差し引きして使用度数を出し、前月より甚だしく使用量が多いもの、少ないものは再調査していました。今では機械的に瞬時に結果が出てくるのでしょうね。競技会ではその速さと正確さが争われました。私はどちらの競技にも出場させてもらいましたが、優勝したことはありません。2位が最高でした。 明治23年、逓信省として発足した電話事業ですが、その後電気通信省(昭和24年)、日本電信電話公社(昭和27年)、日本電信電話株式会社(NTT・昭和60年)と変遷し大発展をを遂げて今日に至っています。 私が42年間勤めさせていただいた間のことを、思い出すままに綴ってみました。 2013年12月2日 記 牧戸富美子
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