“ 昔昔の電話の話 ” 1番は「東京府庁」2番は「逓信省電務部」3番は「司法省」で、公使館、新聞社、銀行、商社、ホテルなどが多く見られます。 個人名では渋沢栄一、大倉喜八郎、岩崎弥太郎などもあります。またマクド・ナルドというのも出ています。横浜ではカタカナ名(外国人でしょう)が多く出ています。 最初は1番から電話番号順に加入者名が出ており、1枚の紙でしたが、後にいろは順・縦書き(明治31年・1898)を経て、現在のような50音順・横書き(大正14年・1925)になり、呼び名も電話番号簿から昭和46年(1971)電話帳に改められました。 全国道府県で最初に電話交換局が出来たのは、東京と横浜でしたが、順次全国に広がっていきました。東京、横浜に次いで出来たのは、明治26年、大阪と神戸、明治30年、京都、で、最終は沖縄の明治43年でした。明治時代のうちに全国に電話交換局の設置が完了したことになります。 急速に発展した電話ですが、その便利さがすぐ知れ渡ったのでしょうか、電話の需要はすさまじく、明治44年には全国で、加入申込数262,151件に対して、開通率は60%、積滞率は40%となっています。それ以後電話の積滞は昭和になっても続き、電話加入権が高額であったのを記憶しています。積滞がすべて解消したのは、実に昭和53年でした。 ここで「驚くべき、というか笑い話のようなお話を一つ。 戦前から戦後にかけて、硬貨に使われる金属が不足し、硬貨が作れません。小額の紙幣が多く出回っていました。公衆電話は硬貨がないと使えません。そこで登場したのが「信用式公衆電話」なるものでした。交換手が通話料の投入を促すと利用者が「入れました」と言うのを聞いて接続します。「そんなアホな」と思われるでしょうね。ところがいざ集金してみるとなんと実際より多くの紙幣が入っていたのです。「日本人も捨てたものではない」と感心し、みんなで喜びあいました。しかしそんなに世の中甘くはありません。ほどなく収支は逆転し、使用された料金の20%くらいしか入っていないようになりました。使用する人にしてみれば、最初は当局の英断に感謝し、正直に、おつりはいらないとばかり多めに入れていた人も、度重なると馬鹿らしくなってきたのでしょうね。20%の方々の正直さには敬意を表しますが。公共の福祉に貢献するという社是による施策だったと思われますが、間もなく世の中が落ち着き、復興も進んで硬貨が潤沢に製造されるようになり、「信用式公衆電話」はなくなりました。 2013年10月20日 記 牧戸富美子
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