古今東西
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“ 昔昔の電話の話 ”
その8

 日本の国で始めて東京、横浜間で電話通話が始まったのは明治23年です。電話交換局は東京麹町区永楽町2丁目1番地(現在の千代田区丸の内1丁目2番地)、横浜は居留地233番地(現在の横浜市中区日本大通り)に置かれました。また電話を持たない一般市民のために、東京市内15ヶ所と横浜1ヶ所の郵便局や電信局の窓口に今の公衆電話に当たる「電話所」が設けられました。
また電話交換手は始めから女性でした。それは外国の例を見習って最初から女性にしようという方針が立てられたからです。ところが14〜25歳までの女子、しかも相当学問があって、筆算をよくする人という条件がついたので、人が集まらない。そのようなお嬢様が職業につくとは考えられない時代でした。まして奇妙なエレキの機械を扱う仕事と聞いては応募してくる人がいないのも当然でした。そこで電信技手の娘さんを集めるなどしてやっと創業に間に合わせたということです。
こうして今の東京駅北口の筋向いにできた東京電話交換局で仕事をはじめた交換手の第一号は、女子9名、男子が2名。横浜では4名がみな男子だったそうです。 交換局のあった通称「辰の口」のあたりは江戸時代の大名屋敷の跡で、そのころは三菱が原と呼ばれる草原でそんな寂しいところへぽつんと小さな建物が建っているのですから"良家の子女"出身の通信技手さんたちは、自家用の人力車で通ったといいます。いまなら運転手つきの自家用車でご出勤ということになります。なかには弁当をもったお手伝いさんが付き添う交換手もいたということです。給料は日給で12〜13銭、このころの男性局員は25銭ぐらいでした。服装は長袖の着物,羽織に広幅の帯を締め、髪は桃割れか、いちょうがえしで、そのまま交換台につき「もしもし何番へ」とやっていたのです。
 「12時の交代なれば、いわば半日の職業にすぎざるがゆえに」「いずれも面白半分の仕事とて」「半日は茶の湯や生け花のおけいこごとができる」と当時の新聞に書かれました。
しかしまた、こんな激励もありました。「今度交換手に採用されたる女子の出来、不出来は女子の栄辱の分かるるところ、まさにこれ関が原の一挙というべきか。女子産業の興廃、前途一般経済の損得につながるもまた大なり、操心堅固に身を持し職を執り、あっぱれ勝利を奏したきことなり」わが国における職業婦人の走り、われらの大先輩に敬礼。
 電話での呼びかけ言葉は「もしもし」といいますが、これは「もうし、もうし」という呼びかけだったとも聞きました。当時「もしもし」という言葉が流行り言葉になったそうです。また「おいおい」と呼びかけていたとも。明治の男性らしい感じですね。
           (資料は日本電信電話公社広報部発行 電話100年小史による)
      2013年10月12日
記 牧戸富美子   

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