古今東西
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“ 昔昔の電話の話 ”
その7

 そもそも電話は明治9年(1976)アメリカの、アレキサンダー・グラハム・ベルによって発明されましたが、その1年後、明治10年11月、早くも日本に輸入されました。明治維新後、世界の文明に追いつこうと努力していたわが国の進取の気概が想像されます。アメリカの電話機の輸出第一号だったそうです。
 そして12月、その電話機を使って、赤坂溜池の工部省と赤坂御所内の宮内省との間、およそ2kmで公式試験を行ったということです。びっくりするではありませんか、1ヶ月ですよ。今では考えられない早さですね。当時は今ほどいろんな制約がなかったのでしょうね。その後電信局製機所で、明治11年、2台の電話機を完成させました。国産第一号です。その頃から新しいものを取り入れるのが日本の特技だったのですね。「明治の人はえらかった」と、つくづく思います。
 明治20年、イギリスからガワーベル電話機を2台輸入、これを使って、明治22年12月から1年間、東京、熱海間に1回線を施設し日本最初の「商用電話実験」を開始しました。なぜ最初の公衆電話実験が長距離、それも熱海に引かれたのかというと、当時熱海が温泉保養地としてにぎわい、官、軍、財界の有力者たちが週末の保養地としてよく利用していたのでPRをかねて選ばれたのだということです。
 記録によると人の声以外にも聞こえるかどうか試すのに、電話のそばで、熱海の芸者さんに三味線を弾かせたとか。
当時の新聞は「互いに数尺をへだてて対座し、談を交わるといささかも異なることなし」とか「ゆうれいの声を聞くようだ」などと驚きを報道したそうです。
 明治23年、逓信省はいよいよ加入者募集の告示を新聞に掲載しましたが、当時一般の電話に対する認識がなく、当初なかなか応募者が集まらず、いろいろな宣伝活動を行い苦労したようです。ところが電話の評判は一向に盛り上がらず、「電話をつけるよりも"小僧"をやとったほうが得だ」という反論が出たり、おりから東京に流行していたコレラ病が電話線を伝わるのではないかなどという流言が広まったりする始末でした。電話と小僧さんの問題では当局も心配し、三井財閥の益田孝氏に相談したところ、その時の彼の言葉は「普通教育が発達すれば丁稚小僧を得る事は困難になるから電話は必要だ」というものだったそうです。やはり財閥の総帥ともある人は先見の明があったのに感心します。多難を極めた加入者の獲得でしたが、なんとか東京215名、横浜45名の申込を得るまでにこぎつけました。当日までの開通は東京155名横浜42名で、明治23年(1890)12月16日電話交換を開始しました。
    (資料は日本電信電話公社広報部発行 電話100年小史による)
      2013年10月1日
記 牧戸富美子   

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