古今東西
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“ 昔昔の電話の話 ”
その6

前回の(5)に掲載されていた写真は、磁石式といわれるものです。そこで少し説明しますと当時電話には、自動式(自分でダイヤルしてかける電話)と手動式(交換手が番号を聞いて繋ぐ電話)と磁石式(加入者がハンドルを回して発電し交換手を呼び出す電話)がありました。大阪の電話は半分くらいは自動化され、あとは手動式でしたが、地方の多くは磁石式でした。 私が赴任していた昭和46年ごろ、淡路島は洲本や津名などは自動化されていましたが、そのほかの20あまりの局は磁石式でした。その後数年の間に次々に自動化され、洲本局は改式された磁石式局の職員の受け入れで大変でした。
 昭和27年には電話事業は電気通信省から電信電話公社になりました。そして日本の電話は戦後の荒廃から徐々に立ち直り、その後目覚しい発展を続けることになります。
 先に市外通話は時間がかかると書きましたが、大阪から近い京都、神戸などは即時通話といって、申し込むと交換手がその場ですぐに接続できるようになりました。昭和38年には東京、名古屋間で始めてダイヤル通話ができるようになり、その後次々にダイヤル通話が広がりました。
 私が勤務していた南分局は公衆電話が全部自動式になった昭和27年に、手動式の業務はなくなり職員は、北浜にあった番号案内局と堂島にある市外電話局に分かれて配属されることになりました。私は希望して市外電話局に転勤になりました。一番花形だった現場への異動はかなわず、監査課へ配属となりました。
 監査課というのは局の電話業務の文字通り「監査」をする課で、顧客から呼び出しがあってから何秒で応答するか、また交換手が電話の取り扱いをする中で、どれだけ間違いがあるか、また接続するのに各動作が何秒かかるのか、また顧客への応対状況はどうかなどを調査する課なのです。当時顧客からの「呼び」には「11秒」以内で応答するのが基準となっており、そのパーセンテージが各局、課などの成績に上げられました。また取り扱いの間違いはA事故(誤接続や誤切断など)と、B事故(用語誤りなど軽微な事故)がありそれを調査する私たちは職員からは、ちょっと「嫌われ役」でもありました。監査課には現場係と、機械係があり現場係は事故、応対など、機械係は主に時間を測る仕事でした。私は機械係でしたので、風当たりはあまり感じませんでした。
      2013年9月18日
記 牧戸富美子   

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