“ 昔昔の電話の話 ” 機械棟だけ残った局舎で手動の公衆電話台は動かず、自動の加入電話は焼け残ったものだけは使用できたのでしょうか。町の公衆電話もみんな焼けてしまい、全く仕事がありません。そこで始めたのが農作業でした。折りからの食料難でみんな飢えていましたから喜んで参加しました。幸いなことに当時の局長さんが、農作業に詳しい方だったので、そのご指導のもと焼け跡の瓦礫を取り除くことから始めて相当な広さの農園が出来ました。 ナンキン、さつまいもをはじめ、いろんな葉物もびっくりするくらい立派なものが出来ました。さすがにお米は作れませんでしたが。それで雑炊を作って食べたのです。何にも仕事がなく落ち込んでいた私たちに仕事を与え、生き甲斐も与えてくださった、局長さんの英断に今思うと感心します。焼け残った分局同士の交流もあり、当時南分局へ出張するのが喜ばれていたそうです。おいしい?雑炊のご馳走にありつけるからです。 そんな毎日がどのくらい続いたのか、はっきりした記憶はありませんでしたが、アメリカ軍の進駐がはじまり、始めて見る青い目、金髪の男性にびっくりしました。それまではアメリカ軍が入ってくると、女の人は襲われるとか、髪を切って山奥へ逃げねばならないとか噂がとんでいましたが、アメリカ兵は意外に優しく、明るく温和そうに見えました。 それからは、なんでも進駐軍、進駐軍で、「進駐軍の命により」が枕詞のようにひろがりました。全滅していた公衆電話も「進駐軍の命により」復活しました。公衆電話から進駐軍の方から電話があると、中央局の進駐軍の駐在しているところへ接続しなければなりません。そのため私たちは講習を受け、丸暗記のたどたどしい英語で担当のチーフオペレーターに接ぐ旨を告げて接続しました。始めてアメリカの人から依頼されて接続したときは私の英語でも通じた!という喜びでとてもうれしかったのを覚えています。 2013年8月31日 記 牧戸富美子
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