古今東西
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“ 昔昔の電話の話 ”
その4

 私が就職したのは昭和15年でしたが、当時、普通の家庭には電話はありませんでした。私も同期入社の人たちも、生まれてから一度も電話をかけたことがありませんでした。実習で始めて電話での声をきくときは、ほんとに「どきどき」しました。
 折からわが国は戦争に向かって刻々と近づいていた時代でした。電話事業は大事な国の基幹産業であり、戦争にも欠かせない事業でした。私たちはその重大さを懇々と叩き込まれ、「逓信報国」の名のもとに、一層仕事に励むこととなりました。
 昭和20年になると、米機による激しい空襲が熾烈となり、空襲警報が出て局の地下にある電話回線を引き込む広いマンホールがあるのですが、そこへ「非常持出」として用意された重要書類などを持って避難しましたが、そのとき1キロも離れていない下寺町に1トン爆弾が落とされ、物凄い爆音と振動に震え上がりました。後でその場所に行ってみると、とんでもない噴火口のような大きな穴ができていました。空襲はだんだん激しくなり電話局の施設にも甚大な被害をもたらしました。南分局は鉄筋コンクリート建の機械棟と木造の事務棟でしたが、3月11日の空襲で機械棟を除きすべて焼失しました。当夜宿直だった10数名の社員は監督さんの指示のもと、木造棟から機械棟へすべての書類、必需品などを運びこみました。どんなに大変だったか想像するさえ身が震えます。その結果その後の分局の運営に困ることはなかったと聞きました。新米の私にも判るほどその功績は大でした。当夜の宿直者、特に沈着に指揮して被害を最大限に食い止めた監督さんに心から敬意を表したいと思います。私はその日、丁度宿明けでしたが、もし宿直だったらどんなに怖かっただろうか、しんどかっただろうかと思います。屋上に落ちてきた焼夷弾を手づかみで外に投げたとか聞きました。すべての作業を終えて、全員、道頓堀、日本橋の橋の上へ避難しました。間もなく日勤で出勤してきた人たちからお弁当をもらい箸がないので靴べらで、友情に泣きながら食べたということです。
 その大空襲の結果、大阪は全滅したといっていいでしょう。屋上に上がると、堺筋一体は焼け野が原、見渡す限りただただ焼け跡。10日経ってもまだ燃え続けている蔵。夜になると灯りが一切ない荒野に蔵の焼ける炎の灯りだけがあちこちに見えました。
 職員の被災も深刻でした。家が焼けた人も多く、連絡不能の人も大勢いたようです。
 この戦争で108万台あった電話はその半分、46万8000台になってしまったということです。
      2013年8月5日
記 牧戸富美子   

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