“ 昔昔の電話の話 ” 若い人たちは洋服を着ていましたが、既婚の女性はほとんどが着物でした。当時20歳までには大体結婚していましたから、周囲は和服ばかりです。電話局はお役所ということもあって、着物の場合は袴を穿きます。それが私たちの憧れでもありました。少女歌劇のスターのように袴を少し短めに穿き、白い足袋で足首を5センチメートルくらい出し颯爽と歩いたものです。袴を胸高に穿く人もいましたが、少し低めに穿くのが粋だという風潮が(当時の私たちの局では)あって、新米の私たちも先輩の真似をして粋がっていました。通勤着とは別に、仕事中は職服といって白い上着が支給されました。希望により和服用と洋服用が選べます。 南分局は堺筋の道頓堀北詰を少し北に寄った八幡筋にありました。大阪の近郊、住吉に住んでいた私は難波から南海電車を利用していました。帰りはいつも友達と連れ立って道頓堀から千日前をとおり喫茶店や、甘いものの店に入ります。法善寺横町の夫婦善哉も行きつけのお店でした。南の繁華街の真っただ中ですから誘惑は一杯ありました。誘惑といっても食べ歩きや、映画館ですが、お小遣いがいくらあっても足りません。苦労したものです。 電話の仕事は24時間休みなしです。従って、私たちの勤務も昼間だけではありません。早出(7:30〜15:30)、日勤(8:30〜16:30)、宵勤(14:00〜21:00)、宿直(16:00〜翌日8:30)、その日は休み(宿明)、休暇、の組み合わせで作られていました。休暇は7日に1回です。勿論日勤専門の人もあり、事務系の人は普通の会社員と変わりありませんでした。宿直といって思い出すのは南京虫です。 道頓堀といえば都会の真ん中ですから、南京虫はたくさんいました。宿直では早寝と中寝と遅寝があり交替で仮眠をとります。当時ベットはなく畳の部屋に布団を敷いて寝ます。その布団を囲んで南京虫の虫捕り器をおいておき、遅寝の人が朝起きると、その虫捕り器を2本、かちかちと打ち合わせて、木の間に潜んでいる南京虫を追い出しつぶすのです。今思うと随分原始的なことをしていたと思いますが、それで誰も苦情を言いませんでした。 私は日本橋に叔父の家があり、夏休みにはよく泊りがけで遊びに行きましたが、叔父は印材(印鑑の材料)を扱う仕事でしたので中国や台湾から材木を輸入しており、そのため南京虫がたくさん居るということでしたが、家の人はあまり喰われない,「お客さん虫だ」喰われるのは田舎者だと言われたことがありました。虫にも免疫ということが有るのでしょうか。 2013年8月1日 記 牧戸富美子
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