古今東西
目次へ
次の便り(その2)

“ 昔昔の電話の話 ”
その1

 私が電話局に勤めたのは、昭和15年(1940年)のことです。当時、電話事業は郵便事業とともに国の事業で、所管は逓信省、私たちはいわゆる「官吏」だったのでした。
 当時、大阪の電話局は20あまりの分局があって、約半分くらいの局は自動化(自分がダイヤルして掛けられる方式)されていましたが、後半分は手動式で加入者が受話器をあげると、交換手が「何番へ」と応答して相手番号を聞き接続していたのです。
従って電話事業には多くの人手、特に若い女性が必要とされていました。
 私が3ヶ月の養成期間を経て配属されたのは大阪南分局でした。南分局は当時すでに自動化されていましたが、大阪の公衆電話の接続を受け持っていました。当時の公衆電話は交換手が応答して通話先を聞き、接続します。相手方が出ると、交換手が「お繋ぎしますから、5銭、お入れください」と言ってお金の投入音を確認して接続しました。5銭で3分間話が出来ます。3分経つと交換手が割り込んで、「続けてお話なさいますか」と聞き続けるなら再び5銭いれてもらいます。始めから話が長くなると思うときは、始めに10銭入れておくことも出来ました。
その違いは、5銭は、「チーン」、10銭は「ブーン」というような音でした。
 また、それぞれの局には手動式の局から自動式の局へ接続する交換台、自動式の局から手動式の局へ接続する交換台もありました。また市外通話はすべて手動式でした。中央局には記録台という市外通話受付専門の台があり、受付時間、発信者の番号、通話先の番号を交換証という用紙に記入しそれぞれの接続台へと運びます。北海道から九州までそれぞれの担当の台があるのです。各県の主要都市には大きな局があり、小都市はその局から中継されます。地方の小さい局になると2中継(2つの局を中継する)のもありました。限られた回線で接続するのですから、時間がかかります。2・3時間はざら、7・8時間もかかることも珍しくありませんでした。市外の交換台は、一方の端から眺めても向こう側の端は見えないくらいです。
交換証も気送管という真空式の管を使って送っていました。また昔はローラースケートで運んでいたという話も聞きました。
電話をはじめ、パソコン、スマホなど、瞬時に繋がる今から考えると想像も出来ないことでしょうね。
 私が就職してから電話は着々と自動化が進み、昭和20年ごろにはほとんどの局が自動式となりました。
      2013年7月26日
記 牧戸富美子   

このページの先頭へ戻る