古今東西
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“ 戦後65年 ”
毎日が終戦記念日、特にこの時期(8月)は、
戦時中の出来事が走馬燈の様に浮かんできます。

沖縄県出身の方との会話
雑談の中で基地の事柄がでて参りまして、爆音に悩まされ早くどうにかしてほしいかったと・・・・
休暇で帰省する如に願望はつのる・・・
政権交代によりオエラガタが沖縄を訪問されていますが、・・・・。
果たして1週間?、数日館?、1日?、数時間?、 の滞在では体感できないだろうと思いました。
実は昭和25年新潟県の疎開先から戻り豊中に住みました。当時私は高校2年生でした。
伊丹飛行場は米国の進駐軍が占領していましたので毎日飛行機の発着時の低空飛行の音、それこそ「キーン」と言う耳をつんざく様な音でした。
当時は、敗戦間も間もない時でもあり、一応米国進駐軍に守られていると言う概念のもとに我慢していましたね。
改めて65年の日本の在り様を考えさせられました。
戦後処理に就いては種々議論されたり、60数年後に話題となった日米間の密約、防衛問題等々、今後歴史として教科書に掲載されるのでしょうか、・・・・。

戦後の海外からの引揚者の方々
ある場所で満州(旧)からの引揚者を目の当たりにした私の事を話してみました。
数十人の集まりで年齢も様々ですが、戦争時代を体験した方々もいらっしゃいますので当然引き揚げて来られた人々の姿を知ってらっしゃるだろうと思っていました。然し知らない・・・・との事。
私は昭和24年の12月迄新潟県出雲崎と言う日本海に面した静かな町に疎開者として住んでいました。
そこで出出征兵士の帰国、又、遺骨となっての帰国等々を目の当たりにしました。 今でも目に焼きついている光景があります。
旧満州には新天地を求めて沢山の若者や家族達が開拓者として住んでいました。旧ソ連の国境近くの収容所に入れられ、ようやく昭和24年に帰国した人達が沢山いました。
海辺の町にも数家族が帰郷して来ました。皆町中で迎えました。でも衣服はボロボロ、女性は丸坊主頭でした。
他国の男性に貞操を奪われない為の防御としての男装姿でした。弱肉強食は動物の世界であって、人間の世界は強いも弱いもありませんのに、・・・。
何故?あれから60年経た今も脳裏に焼きついています。

戦時下の音楽教育
音楽を生業(なりわい)とする者に取って耳から入って来る音。表現する音をつかむ事は絶対に必要です。
幼児から又専門職を目指す人々は必ず聴音訓練があります。
音のキーを聞いて音譜に、又は声に出すと言う作業です。
産まれながらにして音感を持っている人も居ますが(絶対音感)、殆どは訓練の積み重ねです。
小学生の時、音楽の時間に教師がピアノを弾き児童はその音を当てる内容がありました。 何故でしょうか?。
それは敵機B29の爆音を聞き分ける、つまり遠くの空か、近くの空か、頭上か、と言う事なのです。
音の三和音ハ・ホ・ト(ど・み・そ)、ハ・ヘ・イ(ど・ふぁ・ら)、ロ・ニ・ト(し・れ・そ)。
当時は、外国語は全て禁止、従って音譜も皆、日本語となりました。
ど・れ・み・ふぁ・そ・ら・し・どでは無く、ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハです。
但し、この片仮名は今でも健在で、ハ調とかト調とか・・・と使われています。
あら不思議!!

戦争を知らずに ・・・♪♪ の時代に育った人たちが殆どになってしまった。
戦場から生還された年齢の方達は余りにも苦しく、重い体験で、口を閉ざしてらっしゃる方達が沢山いらっしゃいます。私等、全く銃後の良い子としての体験だけなので、本当に戦場に赴いた先輩の方達から見ればそんな甘いものでは無いとおっしゃるかも知れません。
私たちは何とかして後世に伝えていくことが必要ではないでしょうか?。

文責 山本 矩子


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