古今東西
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“ 舞鶴の港 [戦中戦後] ”

 先日バスの中での二人の女性の会話を聞くとも無く聞いていました。
「此の前 舞鶴の親戚の所に行って来たのよ・・・」
その後の内容は忘れたが、舞鶴の地名が深く心に残りました。
昭和29年"岸壁の母"が菊地章子に依って歌われラジオから流れました。
岸壁とは京都府舞鶴の港である。
 第二次世界大戦(大東亜戦争)の終結後、旧満州、中国大陸、南方の島々に残された邦人は沢山いました。
 現地で亡くなられた人も数え切れない。
然し幸い生存された方達は現地で捕虜になり、過酷な日々を送りながらひたすら祖国に帰る日を待ちわびていらした。
 昭和20年12月初めて引き揚げが開始され、最後の引揚者は昭和36年6月。その間政府は引き揚げ援護局を設立。
 全国で18ケ所の港が寄港地となり、沢山の人達が祖国の地を踏み感涙と共に安堵されたであろう。
 昭和19年8月9日日本はロシア(旧ソ連)とも開戦したので、中国大陸とソ連国境に居た兵隊さんを始め一般の方は捕虜となり、酷寒の地シベリヤ(マイナス40度の気温)で過酷な日々を強いられた。
 政府間の協定が成立し昭和22年、初めてシベリヤ抑留者が小樽港に帰港されました。
その後日本海に面した舞鶴港に疲れ果てた人々が帰って来られた。
夫や息子の帰港を待ちわびてこの岸壁に足を運ぶ人達の様子を作詞したのが藤田まさと氏、作曲は平川浪竜氏でした。
こんなせつない苦しい悲しい歌が二度と生まれない事を切望します。
舞鶴港の名はシベリヤ抑留者の帰港地と言う事実は筆者の頭・心から 離れない。


舞鶴引き上げ桟橋

文責 山本 矩子               

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