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いま " 語り伝えたい!! "
8月6日・9日・15日 今から62年前です。
読者はその時何歳でしたか。
生まれていない方も多いかもしれませんね。
私が小学校2年生だった12月8日、大東亜戦争が開戦しました。
そして、6年生の年の8月15日敗戦です。
その間しっかりと戦争中の教育を受けました。
当時私たちは八尾町(今は八尾市になっています)の近鉄久宝寺口に住んでいました。
(楠木正成が戦さに行く時通った町とかで、楠公さん楠公と崇められて忠義の人として常に聞かされました。)
戦争が始まった時は勝ち戦で、マニラ陥落は町中で旗行列と提灯行列で大騒ぎでした。
中国(※1)でも勝利の報道ばかり。
でも私のまたいとこは、昭和18年中国で戦死をしました。
父は新潟県出雲崎町(良寛和尚の生誕地)の出身で、旧中学を卒業後上京し、兵隊検査で甲種合格だったと自慢していました。
千葉の通信学校で、いわゆるモールス信号の教育を受けた様です。
除隊後、東京で会社員となり大阪に転勤、神戸生まれの母とお見合い結婚をしたそうです。
明治35年生まれの父・明治43年生まれの母。
それこそ、私等とは異なり父には絶対従って、言葉もたとえば「ご飯食べはりますか?」とか出勤する父の靴の紐を結んでやったり、寒くなると掘りこたつに丹前を暖めていて帰宅した父に着せていました。
そんな家庭でしたのに私は全く正反対ですね。
然し私は終戦後を境に変わったのです。言い訳ではありませんよ。
小学校では正門で敬礼をして入り、二宮尊徳の像と奉安殿の前で敬礼をして教室に入りました。
それも前の扉は先生だけ、生徒は後ろの扉からしか出入り出来ません。
先ず、朝礼の時には教育勅語、何故か五ケ条の御誓文、 そして確か昭和17年5月頃に青少年に賜わる勅語。
それとョ山陽の日本概史等を暗唱させられてから授業に入りました。
すべて軍隊式で男児はゲートルの巻き方も習いました。
ラジオ放送は大本営発表「我が国は・・・、敵機を墜落・・・」等々。
父は、軍需工場に関する仕事をしていたので徴兵なしでした。
町内のどの家にも道ばたにも防空壕が掘られていました。
昭和20年3月13日の夜は空襲をうけ八尾から大阪の空は真っ赤でした。
14日の朝の空は煙で黒ずんだ空。
そして、近鉄の線路をススで汚れた顔と衣服で、何故か普段から防火訓練をしていましたので"バケツとシャク"だけ持った人達が、線路をひたすら奈良・大和の方に逃げていった方達の姿が今でも目に浮かびます。
20年5月は奇数日のお昼に空爆。
親子焼夷爆弾が空中でバラバラと落ちて行くのを防空壕から顔を出して見ていました。
大阪の空は煙で真っ黒。
布施に敵機が墜落されたと言って、八尾の学校からモンペと下駄、防空頭巾と水筒を持って皆で見に出かけました。
B29の一部でした。
布施の方の密集住宅は強制的に取り壊されました。
その時の瓦(かわら)を1人2枚づつ荒縄でしばって、八尾の小学校まで持って帰らされました。
何故あんな事をさせられたのか、私は今も謎です。
父の会社(大阪市内)も焼けましたので疎開することになり、忘れもしません、6月23日に八尾を出ました。
でも軍の仕事をしていました父は、荷車1台を調達して貰って家財道具・ピアノも皆田舎に持って行くことが出来ました。
今思えば奈良の桜井の方の小さな駅でそこまで荷物を荷車で運びました。
最初は、父の2番目の兄が居る上越線の小出(こいで)に行きました。
信濃川の支流で水の美味しく八海山も見えてよい町です。
でも、6年生で転校しましたが晴れた日は畠の桑の木の皮むきです。
兵隊さんの軍服になると言う事です。
あの頃は、養蚕が盛んでしたので桑の木が一杯ありました。
雨の日だけ勉強でした。
父は、仕事の整理の為大阪に残り、母と共に伯父の家の世話になりました。
やっと7月の終わりに父も来ましたが、何しろ昔は子供が沢山で、いとこ達も東京から疎開していましたので、広い田舎家と言っても満杯。
それで、父は生まれ古郷の出雲崎に行く事に決めて、8月に入ってから参りました。
その頃にソ連も参戦しましたので、今度は日本海から艦砲射撃を受けるのかと皆心配していました。
8月15日、天皇陛下の玉音を、ガーガーと雑音のあるラジオで正座をして聞きました。
ある程度、父は軍から予告されていたのかわかりませんが、皆これからどうしようかと 不安な気持ちの時、ミーハーの父だけは「今夜から電灯に幕を張らなくてもよいゾ」とはしゃいでいました。
戦時中は食糧もなく、お米も何もかも配給、朝食は米粒の殆ど入っていない“おかゆ”。
昼食は、皆夫々家に食べに帰りました。でも“サツマイモ”、“カボチャ”。
おやつは小さな庭に植えてある、“トマト”や“チシャ”等。
夕食は、大根葉の乾かした具に味噌味の“おじや” 。
ダシジャコの天ぷらをかき揚げたもの等。
でも皆丈夫でした。
新潟県出雲崎の小学校は、集団疎開児(東京都葛飾区の4年生から6年生迄)がお寺や旅館に泊まっていました。
私の夫も私と同年ですので大阪市内に居まして、和歌山県に集団疎開をしていましたが、だんだんと空襲が激しくなりいつも「大本営発表敵機B29が紀伊水道を北上」紀伊水道は敵機の通り道で途中で滋賀県の三雲と言う村に疎開していたと言っていました。
ノミ・シラミ・蚊・ヤモリ等々の中での生活。
イナゴも佃煮にして食べたと言っていました。
でも母からの葉書を大事に持っていました。
昭和20年8月を過ぎ2学期になりましたが、集団疎開児はまだ出雲崎に居ました。
ある日、児童の1人が居なくなり、先生や町の人達が探しました。
海岸の町から1里の道を走るローカル線越後線の出雲崎駅に居たそうです。
冬頃に疎開児達は東京に帰って行きました。
父は古郷で海水を蒸留して塩を作り始めました。いわゆるヤミの塩ですが、カツギヤさんが農家に持って行き売っていました。
結局余りうまく利益にはならなかったのでしょう。
24年の夏に単身で大阪に行き、父の妹が豊中に居ましたので、頼って近くの蔵を借りて住み、大阪市内の泉尾で昔の仲間と塗装の工場を始めました。
私は、24年の冬に母と豊中の蔵生活の父の所に来ました。
伊丹の飛行場はアメリカに占領され、蛍が池から伊丹空港に行くのですが、桜塚高校に転入した私は時々大阪に出る時、阪急電車には、いわゆるパンパンとアメリカ兵が沢山居ました。
片足を失った傷病復員兵が電車の中でものごいをしていました。
阪神百貨店の裏のあたりは、ヤミ市があり、親を亡くした子供達がアメリカ兵やパンパンの靴磨きをしていました。
昭和25年に二重橋で当時の学生が反乱を起こし、石橋にあった大阪大学の学生達のデモの声もしていました。
講話条約成立後、今まで日章旗は禁止でしたが、昭和26年の高校体育祭に日章旗が校旗と共に揚がった時は、私達高校生は涙がでる程感激しました。
それからどんどん経済も上昇しました。
でも昭和22年財閥解体、庶民も銀行預金の凍結。
等々、戦後処理をGHQに交渉した吉田茂・重光葵等々、ライシャワー大使等々の努力があったのでしょう。
話が前後しますが、昭和22年に田舎のおじいさんが戦犯として連れて行かれました。
南方で捕虜収容所の所長をしていたとの事ですが、数年で帰ってこられました。
満州の奥地に居た開拓団の人は、やっと昭和24年の春に帰って来ました。
ボロボロの衣服、女性はロシア兵に暴行されるのを避けて丸坊主頭で男装をしていました。
その光景は忘れられません。
戦後62年(平成19年)、防衛庁が省に昇格したのは何故?
戦争放棄をした日本が自衛隊を派遣して苦しんでいる国の人達を助ける事は大切な使命と心から思いますが、マスメディアでは時々派兵と言う言葉を使っていますが、派兵とは兵隊の事なのでは?
自分を守るために武器を携帯するのは必要でしょう。
"目には目を"と言う事態になっては、こちらからも武器を向ける事になります。
今の憲法は、アメリカの助言と言うが強制だとも考えられますが、第9条は絶対に守ってほしい、永久に。
私のまたいとこが中国で戦死をしました時名誉の戦死、英霊として出雲崎の町で町葬をしてくれました。
まだ、八尾に居ました私達一家も田舎に帰り参列をしました。
でも終って、またいとこの庭に親族中が集まった時、またいとこの両親は泣いていました。
町葬の時は、気丈でしたが、僅か22〜23才の長男を亡くした事は、たまらなく辛かったのでしょう。
特攻隊員の遺書の本を読みましたが、皆母に当てたものです。
検閲判が押してあっても、文の中に 母への思いが読み取れます。
大東亜戦争、第二次世界大戦とか呼び方はいろいろですが、中国、南の国々、ボルネオ、ガダルカナル、グアム、南京、硫黄島(イオウトウ)、ビルマ、アッツ島等、硫黄島の玉砕、そしてアッツ島玉砕、広島、長崎、本土空襲、沖縄戦、犠牲者は弱者です。
私がある学校に教師として勤めていました時、私より8才位年輩の先生が、中国で行軍をしていて、「負傷して同僚の行軍に遅れては悪いと手榴弾で自爆しようとした時」、上司が飛んで来て、手榴弾を取り上げて遠くに投げてくれた。
だから僕は今生きているんだと言っていました。
当時を直接、間接的に体験している年代は私達が一番若いと思います。
私の子供達が幼い頃、亡夫の姉が女学生の時艇身隊で尼崎の軍需工場に行っていた時、空襲にあい九死に一生を得て大阪に向かって、今のJRの線路を歩いていたとの話をした時、子供達は「何で伯母ちゃん電話しなかったの?」の言葉に、私達はこの子供達に通じないねと言い合ったものです。
でも、その子供達も40才近くになった今、世界の国々の戦争の情報を見たり聞いたりして「日本の戦争中と戦後ここ迄どうして平和を維持できているのか詳しく知りたい」と言いだしました。
私は幸いにしてずっと音楽を続けることが出来(でもあのアメリカを排疎した日本も軍歌も歌謡曲も皆西洋音楽のメロディーでしたが)新制度(学制)の大学にも入学出来て、もう65〜6年ピアノ音楽を続けていますが、今高齢者の要介護1〜5の認知症の方達に音楽療法を実働していますが、大変な時代を生きて来られ、我が友を失って自分だけ生きている自責の念を持ち続けている方達に接すると生命の尊厳を感じます。
今この豊かな食生活・衣類等々、このような世にして下さったのはこの方達のお陰とつくづく痛感します。
この方達の青春は戦時下の厳しい時だったのです。
今、海外旅行や新婚旅行等で、グアムやサイパンにレジャーで行く人の話を聞いたりしますと、私は何故か非常に抵抗感を覚えます。
時代は進んだのだと思えば良いのでしょうが。
音楽会でいずみホールに参ります時、私は何時も胸が痛みます。
あの場所は軍需工場があり20年8月15日の朝、爆撃で大勢の若者が亡くなったそうです。
長い間荒れ地でしたが、今ビジネスパークです。
でもいずみホールへの道を歩く度に、まだまだ沢山の遺骨が眠っているのだと思いながら通ります。
私自身の事や当時皆が体験した事を思うがままに直接便箋に書きましたので文章も相前後して恥ずかしい限りです。
でも、沢山の人達が恐ろしい体験をし、最愛の親や子供を亡くした者達の事も、決して忘れてはいけないし、言葉に出して伝えねばと思い筆を取りました。
記 N.Y
※1中国:筆者は中国と記載されています。
※2出来るだけ筆者の記載に忠実にと心がけましたが、記載出来ていないところがあると思いますがご容赦下さい。
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