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戦後61年 遠ざかる記憶
戦時下の体験者より生の声を送る!
この暑い夏の日、国民は皆”決戦服”と言われる長袖の着物を半分に切り手首の所はゴムを入れて、そしてモンペをはいていました。肌が出ない様に。
今日は8月15日です。
大阪環状線の京橋と森ノ宮の間は軍需工場で、15日の朝爆弾が落とされ旧制中学、女学生達も含めて大勢の人が亡くなりました。
音楽会でいずみホールへ行く時、大阪城公園で降りて歩きますが、私はいつもこの下にまだまだ沢山の遺骨があるのだろうと・・・胸が痛みます。
昭和20年の春、東大阪市(現在)の布施の辺りの住宅密集地は敵の標的になるとの事で強制的に家を壊されました。
その時小学生達はその現場に行き瓦を2枚づつ荒縄で縛って、八尾の学校まで歩いて運びました。何故だったのかいまだに原因が解らず常にあの光景を思い出します。
勝ち戦の時、マニラが陥落した日は昼間は旗行列、夜は提灯行列で祝いました。
戦局が激しくなると南の島で沢山戦死しました。
今、若者達がグアム島とかジャカルタ等にレジャーに行きますが、例え誘ってくれる人が居ても行きたくありません。
硫黄島玉砕、アツツ島玉砕等々次から次へと大本営発表があり、その時も必ず”名誉”と言う言葉をつけていました。
いよいよ沖縄、広島・長崎の原爆、そして8月9日にソ連との開戦そして敗戦、近衛文磨の自害。
昭和22年頃だったと思いますがGHQにより財閥の解体、民間人の銀行預金の封鎖・凍結。
私は越後に昭和20年6月に亡父の故郷に疎開しました。冬は雪の為汽車が遅れますので、旧女学校1年生(昭和21年)の時から学校の寄宿舎に入りましたが定期の停電、ローソクの火の下での夕食等、でも何処か人々の心は温かでした。
亡父は23年に再び大阪に戻り亡父の妹が豊中に居ましたので居候しながら友人と塗料の会社をつくりました。時々の便りに大阪駅前の闇市、パンパン、靴磨きの戦争孤児の話、メチルアルコール(当時は酒類もなかったので)で失明した人の事など聞きました。
昭和24年の12月に豊中で小さな家を借りて母と共に疎開先から戻り桜塚高校に編入しました。
戦争中は亡父は軍需工場に関わる仕事をしていましたので、闇米が入ったようです。
昭和25年学生運動いわゆる二重橋事件。当時若者はまだ精神的には戦中の力を心の中に持っていたのでしょう。
唯、一応独立国になった故、沢山の外国文化が入って来ました。
映画、音楽等、とにかくむさぶる様に低料金で鑑賞出来ました。
先日「戦争を知らずに僕たちは育った」時代の方から「玉砕って何?」と質問され少しづつあの悲惨さを語り伝えねばいけないのではと思っています。
N.Y
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