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74回目の終戦記念日

 今年も8月15日の悲惨な記録が新聞に載りました。
 94歳の女性で、当時京橋駅の出札係で勤務していて、14日仕事を終えて帰宅、翌朝出勤すると前日退社後、米軍の爆撃により、天満駅周辺はすべて崩れ落ち、がれきの山と化していたそうです。
人間もその中にうずもれていて、子どもを負ぶったままの女性、下半身のない男性、がれきに挟まれた学生・・・・・・。
14日の襲撃で亡くなった人は500〜600人と言われています。
近くに大阪砲兵工廠があったので、標的にされたのでしょう。
防空頭巾の親子
 私も同じ光景にでくわし、小学生の間トラウマのようになっていました。
私達が住んでいたのも天満駅に近くでした。6月7日の大空襲で防空壕の中にたえきれず、母に負ぶさってもらって、砲弾の落ちる中、城北公園へ、さらに桜宮小学校で夜を明かしました。
 戦闘機B29から落とされる焼夷弾は映像や映画で、嵐の中の稲妻みたいに表現されますが、4歳児の眼に残ったものは全くそのさまではありません。
 真昼だったと後で聞きましたが、不気味な暗黒の世界に隙間のない光の滝水です。翌日家に帰れば、一面がれきで何もありません。その中、火傷を負った人を自転車に乗せ、病院に走って行かれました。
子ども心に助かりそうにないと思ったのは余りに非情な毎日で醒めていたんでしょうか。
その後何処へ移動したのかさっぱり憶えていません。
憶えていることは20年3月、集団疎開に行く姉の山田昭子を市電の駅まで見送りに行った時、母の肩で「お父ちゃんは死んでしまうし、あっこちゃんは行ってしまうし、さびしいな〜」とつぶやいたのをおぼえていますが、母の表情を覗き込むことはしませんでした。
その後転居を重ね、昭子姉の話によると、8月15日を私達は池田回生病院入院中にむかえたそうです。
 母は病気で死んでも爆撃で死んでも同じと、看護婦さんの勧めを断って、空襲警報が鳴っても病室を動かなかったそうで、多分玉音放送も病室を動かなかったと思います。
 私達にとって終戦は6月7日から始まり、その先、どれだけの希望を持って生きていたのか、母や兄に聞いておくべきでした。
 いつの世も国民に希望を与える国になってほしいです。

2019年8月15日       
記:山田 昭子・上村サト子