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花在ればこそ吾れも在り
牧野博士


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 江戸時代文久2年生まれで昭和32年没の実に4代を生き抜き、生涯、植物を愛した牧野富太郎博士の言葉です。
出身の高知の牧野植物園に行った事はありますが、東東京練馬区にも博士の偉業を讃えるための植物園があることを知り、訪れてみました。
入り口にある名木のオオカンザクラの時期は過ぎていましたが、庭木の緑の美しい時期で、住宅に囲まれた静寂な場所にあり、時代の流れと研究成果を偲びながら、散策を楽しみました。生涯全国を隈なく歩いて、1500種以上の新種や新品種を発見・命名した中で、ここには300種類以上の貴重な草木類が植栽されています。特に「スエコザサ」は昭和2年に仙台で発見したもので、当時、辛苦を共にし、6人の子どもを育てた妻スエさんが病で床に伏しており、感謝と愛情をこめて命名したものです。その翌年スエさんは自宅兼研究室のあったこの地で亡くなりました。
 博士は土佐国佐川村と呼ばれていた頃、裕福な造り酒屋に生まれましたが不幸なことに両親を早くに亡くし、祖母の手で跡取りとして育てられました。
寺子屋に通っていましたが、新学制改革で小学校に通うことになりました。家業重視の当時2年で退学し、家業を継いだが、幼少より関心の大きかった植物への研究を諦めきれず、番頭を連れての上京で書籍や研究道具を買い求め、実家に持ち帰ったそうです。
それでも家業を親戚に譲り、上京。東京大学理学部植物学教室へ出入りし、研究を続け、ついに助手、講師になり、世界的に認められる植物の発見や論文や、研究書籍を発刊しました。しかし学歴がないという理由や学内の揉め事から大学から追われました。
その後、以前研究を共にした教授が主任教授になり、大学に呼び戻され、その成果を認められて、ついに理学博士の学位を受けました。
昭和14年、47年間勤務した東京大学の講師を70歳有余で辞任。昭和26年第一回文化功労者受賞。昭和32年94歳で死去するまでこの練馬区にある自宅で病と闘いながら、研究を続けたという。没後旭日章および文化勲章が授与されたが、博士の功績を認めるのに十分であったのだろうか。
博士の言葉の中に「雑草も悪い事ばかりない」とあり、雑草の陰で育つ貴重な植物もあり、抜き取った雑草の堆肥ほど安全なものはなく、家庭菜園を愛する私に大切な言葉になりました。

2019年7月11日    
上村サト子    


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