今回の旅行の第三の目的はイサム・ノグチ庭園美術館を訪れる事である。
住所は高松市牟礼町とあるが市街地から相当郊外である。自動車か回数の少ないバスで行かなければならない。その上見学は週3回の予約のみとしているので、見学者を拒否しているようだが、それだけ生前の雰囲気を残し、専門的な調査と研究空間を維持する為とあり、致し方なし。
美術館との名称とはイメージが違い、背景のある丘や山、制作現場の建物や作品と未完成の素材、ノグチが魅せられた庵治石石材の採掘場が遠くに見える庭、住居全てが庭園美術館である。
イサム・ノグチ(1904〜1988)は日本人作家であり英文学者を父に持ち、アメリカ人作家を母に持ち、その環境と知性と感性を持って、巾広い芸術活動に取り組んだ。肖像彫刻、舞台美術、石彫刻、照明デザイン、庭や公園設計等々の分野を世界中で活躍し、NYと日本を行き来し、丹下健三・岡本太郎・北山魯山人・勅使河原蒼風などと交流をもった。しかし彼にもつらい時期があった。第二次大戦中は日系人として強制収容された。戦後「広島の鐘の塔」のデザインが確定していたのにノグチが原爆を落とした米国人と言う市民反対運動で実現しなかったらしい。石の彫刻の安定性と不変性、竹材と和紙と照明の融合など二つの祖国の交流や平和を願ったのだろうか。庭園美術館には何一つ無駄なものはない。
私たちのドライブも無駄なものがないくらい、三日間で観て、食べて、走った。牟礼町からこのまま一途高槻に帰るのかと思いきや、車は淡路島に入ると道の駅「うずしお」に入った。大潮の時期ではないので大きい渦潮は見られなかったが手ごろな玉ねぎ・・・と生わかめの土産を手にした。ここでも東南アジアからのお客さんの多い事に驚いた。さらに花博の跡地にある大型ホテルと安藤忠雄設計の"淡路夢舞台"という建造物と植物の融合地帯に立ち寄った。エレベーターで山の中腹に上がり、長いプロムナードを通り抜けると、眼下に枡形花壇の百段苑が広がり、海の向こうに泉州が霞んで見える。百段苑に沿って降り、地下の全天候型の「奇跡の星の植物園」に入園するやさらなる夢舞台で様々な演出がなされている所に出合う。世界中の花々や緑の樹々が集められている中を感嘆の声を上げながら散策した。私も残る人生を本物で演出できるようあちこちを訪れ、歴史や芸術や新時代の知識にふれ、心豊かにしようと思った。この紀行文を書き終わった時、ベネッセ元会長のインタビューが新聞に載った。「東京中心の社会へのレジスタンス」としてアートで地域を蘇らせたいと。「進研ゼミ」を「ベネッセ(よく生きる)」の意に社名を変更したそうだ。(完)
2018年12月15日
上村サト子
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