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バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)旅行記(その2)
〜平和に導いた軌跡〜


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 日本ではここ十数年前から「日本のシンドラー」として知られる様になり、映画化も2度された杉浦千畝氏の勤務していたのはリトアニアのカウナスであるとはっきりと認識したのは今度の旅行の行程を確認した時だった。
最初の映画を見ていたのに・・・、やはり、バルト三国、リトアニアという国は日本人にとっては疎遠な国だと思います。
 1940年7月29日ナチスのユダヤ人迫害から逃れる活路として日本通過のビザを求めるユダヤ人に対し、杉浦千畝氏は日本外務省の訓令に背いて、人道上の観点からビザを発行し、合計約1600名に、家族を推定すると6000名のユダヤ人の命が救われたと言われている。
 ビィリニュス市内の中心部の公園に彼の母校の早稲田大学の人達によって記念碑が建てられ、周囲には日本から持って来た桜の木が植えられていた。
次の日の朝、ビィリニュスから1時間半ぐらい掛かって訪れた旧日本領事館はカウナスの閑静な住宅街の一角にあった。記念館は当時の執務室が再現され、彼がビザを発行した机、ペン、タイプライター電話等が置かれていた。
私はその場で暫く78年前の様子を想像して、感慨に耽った。記念館の維持の為の募金箱に募金をし、売店で友達へのお土産にそばの花の蜂蜜を買った。杉浦氏はドイツに転勤命令の朝までビザを発行し続け、戦後帰国後退職を余儀なくされ、民間の会社に勤務後、あるユダヤ人が所在を見つけ、感謝したと言う。
1986年に86歳で死去され、14年後の2000年に外務大臣の河野洋平氏が杉原氏の名誉回復の為に公式に演説を行った。
 私は帰国後、高校3年生の孫が杉浦氏の事を学んでいた事を聞いて、日本の教育を見直した。
 リトアニアで特に世界的に観光地になっているのが「十字架の丘」である。丘と言っても10mもない周辺数百メートルの低い台地である。そこに古そうなもの、新しいもの、豪華なもの、シンプルなもの、キリスト教のみならず、イスラム教、仏教的なもの取り交ぜ、ぎっしりと重なるように十字架が立ててある。
この丘の発祥はわかっていないが、1831年、1863年、ポーランド人とリトアニア人がロシアの圧政に対して蜂起し、いずれも失敗に終わったが、その犠牲になった人の家族が遺体の代わりにこの地に十字架を立てたのが始まりともされている。1918年独立後、数々の死者を弔う場所になっている。この地はどこにも属さないまさに平和と希望と愛の聖地である。
 その後私達は中世の街並みが一番残る中、市街地にはユーゲントスティール建築群が見られるラトヴィアの首都リガ、IT産業(スカイプの開発)が盛んでロシア人30%と共存するエストニアというより相撲力士把瑠都の出身地でもあるエストニアへとバスは北上した。
 9日間、バルト三国に残る美しい中世の城や教会や街並みの中で独立への歴史に浸った。ある教会で石の門扉にバイキングの落書きがあり、驚いたが、中年の女性の教会守りがこちらからも出かけて略奪してきたから、お互い様ねといわれ、笑ってしまった。現代の戦争はお互い様とは言われぬ傷跡を引きづっている。
旅行中、西日本では豪雨による大災害があり、少し心苦しい思いで家路についた。(了)

2018年8月1日    
山田 昭子、上村サト子    

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