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バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)旅行記(その1)
〜国民による平和独立〜


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 ここ数年、年が明けると妹と今年はどこにするかと海外旅行の行先を決めてきた。
私の年齢ではもう後、何回行けるか分からないので、今年は少し目先を変えて、バルト三国に決めたものの、これらの国に関しての知識は「地球の歩き方」を読んだぐらいしかない。
たまたま、新聞に朝日カルチャーセンターで「ラトビアの旅」のテーマで講演があるのを見付けて、妹と申し込み、出発10日前に受講しに出掛けた。
高校の歴史の先生が講師で2012年に行かれたそうで、なかなかユニークな話だった。私達が行く事を聞かれて、まず、北緯60度の所で(大阪は35度)カムチャッカ半島と同じ緯度にある国と考えて下さいと言われ、クーラーを入れた部屋で私達も一度しまった冬物を出してトランクに詰め込んだ。
バルト三国を旅するのはシルクロードのユーラシア大陸の東西の交易路と南北に交差する「琥珀の道」の北半分を旅する事になると初めて聞いた。中国、西アジアからヨーロッパへのシルクロード(貿易路)の果てが、ロシアの西端に接し、フィンランドから80kの海を隔てた南に位置するバルト三国まで通じていたとは昔から大きな世界が広がっていたと察しられる。
 日本人にとってなじみの薄い所だけど、まあ行って見なければと、フィンランド航空でヘルシンキまで妹と2人で行き、東京組と落ち合った。全員初老の5人組で安心した。さらにヘルシンキから三国のうち、南のリトアニアのヴィリ二ュスまで飛び、あくる日から市街観光が始まった。
 中世名残りの石畳の道を午前中3時間歩き続け、飛行機で睡眠不足と時差のせいで疲れており、これからが心配になったがツアー仲間5人に添乗員と現地のガイドと運転手の8人だけに用意された大型観光バスで移動したので、車内のストレスはなく疲れも徐々にとれた。  一日目の午後は市街からバスで30km離れた所にある14世紀後半に建てられたトラカイ城を観に行った後、一度ホテルに戻った。
一休みして今度の旅の目的の一つである5年に一度のヴィリニュスの「歌の祭典」が9時から12時まであるのを見学するため防寒対策をして出掛けた。
 バルト三国合わせて日本の四国か九州位の国土であり、三国とも同じように数百年間周辺の大国に侵略され続けて来た。1988年9月11日に北のエストニアのタリンにある野外音楽堂で30万人(エストニアの人口40万人)の人々が集い民族の歌を大合唱したのが、きっかけになり、その後、エストニア、ラトビア、リトアニアの三国人達が160万人の人間の手による鎖を繋ぎ、そのパワーでソ連から独立をした。
 その後も三国でそれぞれ7月初め、1週間「歌と踊りの祭典」が催され、まさにこの日、リトアニアの民族の歌と踊りの祭典がサッカー球場であり、着席した時は9時前というのに、太陽は高々とあり、さすが北欧の夜と驚いていたが、1時間もするとどんどん寒くなってきた。しかしグランドを7000人の人達が入れ替わり立ち替わり、寸時も休むことなく、それぞれの民族衣装で歌い、踊るのを見て、寒さも忘れ、私は涙が出て止まらなかった。牧畜・漁業・鉱業の自然を愛する国がドイツ・デンマーク・ポーランド・ロシア(ソ連)・ユダヤ人強制収容所などの侵略・迫害に耐え、平和を国民の手で勝ち得た歴史の変遷を歌と踊りと美しい民族衣装でしっかり表現していたのである。
 今までの歴史では、社会を新しく替える時には常に血が流れた。この国の人達は戦いの血を流すことなく、自分達の力で平和独立を勝ちとり、その誇りを目の前に見る事が出来、この旅行に参加して良かったと思った。ホテルに帰るバスの中で妹が「もし、韓国や中国の人達が同じ様な催しをしたら、私達は同じ様に感激するかな?」と言ったのが、私の胸の中に残っている。
次の便り 旅行記(その2)をご覧下さい。

2018年8月1日    
山田 昭子、上村サト子    

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