3月22日VG槻輪の「わがまち紹介」の大阪造幣局の帰り、姉の山田昭子と二人で近くの大長寺に寄ることにした。地図ではすぐ近くの筈が、タクシーはある区画を2−3回廻って、なんと最初の大通りで
見つけてくれた。
確かに寺の白壁と瓦屋根と黒い金属扉が閉まった10mくらいの間口の建物で見つけにくい。 わざわざこの寺を訪れたのは亡くなった母や兄の会話によく出てきた。 私達の実家が明治時代より檀家としてお世話になったお寺である。というより近松門左衛門が享保5年(1720年)、この寺で起きた心中事件を題材に書き下ろし、大人気を得た義理と愛の人情話・浄瑠璃「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」のモデルになった寺である。 あらすじは末尾に書こう。
私達が住んでいたのは今の天満駅付近だが、昭和20年6月7日の大空襲に遭い、この一帯が焼け野原になった。 この寺も焼け落ち、やっと昭和46年に落慶となった。この大長寺は明治42年まで北300mの今の藤田美術館辺りにあったが、明治の豪商藤田伝三郎氏が藤田邸や太閤園や美術館や巨大な庭園整備に現在の地へと移らせた。 政商にもなった藤田一族は巨万の富を得て、男爵の位も得、5月5日の節句には子供を連れて行けばみんなにお菓子をくださったと母は言っていたが、へそまがりの私には少しもあり難いとは感じない。
私達二人は閉っている通用門を恐る恐る押して中に入ると、敷地一杯に檀家の墓石と浄瑠璃で有名になった「小春、治兵衛の比翼塚」が黒くなりながらどっしりと構えていた。 さすが戦火に耐えたらしい。 江戸時代の狭客の碑や移籍前の庭の再現コーナーもあったが、昭和20年8月14日の大空襲でなくなった人への護讃地蔵菩薩の方が心に残った。 終戦前日の事である。 寺の建物は三階建てのマンション風で寺院として重厚さに欠けているように思ったが、本堂に入らせていただくと意外に広く、その奥にはご本尊が燦然と輝いている。 私は思わず手を合わせて、涙がでてきた。 みんなに守られた78年間の自分の命に対する感謝の念だろうか。
昭和20年6月7日、連合軍米軍B29の数知れぬ襲撃に、母と4歳半の私は、家の前にあった防空壕で耐えきれず、おんぶされて2−3キロはある城北公園に逃げた。 季節柄、夏蒲団を背中にかぶって逃げたが、自警団かどなたから敵機から見えやすいと橋の上で捨てさせられた。 今回造幣局に行くとき渡った桜宮橋か源八橋であろう。 さらに桜宮小学校に一晩過ごし、家に戻ると何もなく、愕然とした。 母は明日の命も分からない、死ぬなら一緒にと願い、兄を石川県に学童疎開している山田昭子を迎えに行かせ、家族一同、親戚や会社の寮をたどり、池田に至った今の命である。 最近ある俳句蘭を引用させていただいて悪いが、「B29や炎の中の雛人形」。 多分3月に空襲にあった人だろうが、私達には疎開の荷物に入れず、最後まで楽しんでいたアルバム帳を惜しんだ。 私達姉妹のただ1枚の写真が叔父の家にあった。 当時の子供達にはB29とは悪者の象徴として、会話にでていた。 現代の子には死語になってしまったか、オスプレーの時代である。
2018年5月17日
上村 サト子
浄瑠璃、近松門左衛門「心中天網島」あらすじ
妻子ある天満の紙屋治兵衛と曾根崎新地の遊女小春がいい仲になり三年、店の身代を揺るがすまで入れ込んでしまう。 しかし身請けする甲斐性もない治兵衛は小春と心中の約束を交わす。 その気配を察した妻おさんが小春に死なせないでと手紙で切実に訴えたので、女同士の義理で小春が別れる決意をしたが、まだ治兵衛は未練が残り、店も何も手に付かない。 おさんはついに有り金と着物も質にいれ、小春を身請けするように治兵衛に向かわせるが、その間におさんの父が離縁させ、おさんを実家に連れ帰る。 治兵衛はいよいよ落ち込み、小春を茶屋から連れ出し、網島の大長寺にたどり着き、来世で必ず夫婦として結ばれるよう祈りながら心中する。
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