妹の上村サト子に誘われて、NHK大河ドラマ「眞田幸村」に因んで、天王寺周辺を歩く会に参加してきました。コースの中に、一心寺にも立ち寄るということだったからです。一心寺は私達の実家の代々のお骨が納めてあって、よく母や兄からこの名前を聞きました。
昭和19年4月6日に亡くなった父(享年42歳)の葬式の様子は当時8歳だった私の記憶は確かでなく、よく覚えていませんが、「亡くなって四十九日は線香の火を絶やしてはいけない、留守にしてはいけない」との申し伝えで、よく一人で留守番をさせられました。ある日「今日は一心寺へお父さんのお骨を納めに行くから、学校を早引きして来なさい」と言われ、先生にそう言って早引きしたこと、その日、何だか本堂のような畳の上で座っていたことしか覚えていません。
その後、昭和20年6月7日、天満の駅近くにあった実家が戦災にあったころ、一心寺のある天王寺一帯が焼けましたので、私達とはしばらく縁がありませんでした。昭和42年末の頃でしょうか、兄が約二十年のダイハツ札幌出張所の赴任を終え、千里ニュータウンに家を持ちましたが、そこで昭和42年7月7日に亡くなった母の納骨に兄の呼びかけで一心寺にいきました。生後六か月の次女は主人にあずけ長女をつれていきました。長兄一家と姉も一緒に食事をしたのを覚えていますが、肝心の納骨や妹や姪達のことは忘れました。
今回約50年ぶりに訪れた一心寺は近代的な寺院になり、山門は昭和の名建築リストに載るようになりました。どこの宗派も受け入れてもらえる心広いお寺さんで、全国から送られてくるお骨で10年ごとに骨仏像を建立することでも有名でしたが、最近では余りに多すぎて対応できず、断られているとききました。戦前に納骨した祖父母や父のお骨はあの豪壮なお寺の敷地に埋葬されたのでしょうか。
この日、私達は一心寺の後、玉造まで環状線に乗り真田丸ゆかりの地を巡りました。その一つが三光神社です。その境内に真田幸村が造ったとされる大阪城への抜け道がある。参加者はよく見えない抜け穴を丹念に覗き込んでおられたが、私達姉妹にとって、神社の現在の鳥居に隠れそうになっている約1mの半壊の石柱の方に関心がありました。裏面には「昭和二十年六月の戦災を蒙り、倒壊その片柱をここに留む」、表面には「国家安泰平和祈願」とある。私達が天満近くにあった実家が大空襲にあったのも同じ時期であったことが分かりました。関西一帯が戦火を浴び、国民が生死の世界をさまよわされていたのに、なお戦争は二ヶ月続いたのです。
戦災の大被害を受けた人たちは心の故郷をすっかり刷りかえられてしまいました。自分の記憶も薄れ、親族で尋ねる人もすっかりいなくなりました。私には終活を迎える今の南千里が心の故郷と実感する昨今です。
2018年3月9日
山田 昭子
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