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熊野参詣道中辺路第3回 その2
"一つの石碑にも歴史の刻み深し"



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 5月らしいさわやかな風を受けながら箸折峠を越して、花山法王が水垢離をして熊野詣を続けた日置川(ひきがわ)北野橋を渡り、3m近い立派な石碑がある近露王子跡につく。
昭和8年大本教教主出口王仁三郎がここを旅行した際、教主に当時の村長が請い "近露王子跡"と書いて彫られた。
しかし2年後大本教が宗教弾圧を受け、この石碑も壊すよう命令がきたが、村長自身の模写と主張、出口の名を削り、横矢球男謹書と彫り改め、今に残っている。
名筆だったのだろうか出口氏の碑が全国あちこちにあったが、今残っているのはここのみである。大本教とは亀岡に活動地を置き、明治中期より今も続く新神道系集団で、武人、文化人も共鳴し、 "坂の上の雲"にも出て来る秋山真之も一時熱心な同志だった。平和主張が革命思想ととられ、国家権力の弾圧により解散させられた。戦後自由思想が認められて復活した。私も大本教の本部の場所をお借りした会合に参加したことがあり、久しぶりにその名を聞き、ご縁があったのかと50年の経過が嘘のようであった。
 この村長の横矢氏は13世紀よりこの地を治めた野長瀬一族の子孫で気骨のある人物であったのだろう。先祖は十津川村出身、交易で実力者となり、京都御所から役職をえて、横矢姓を賜った。しかし楠木正成の援護、南北朝争いの南朝方に加勢等が衰退の原因となり、その上豊臣氏の紀州征伐で一族離散した。墓も破壊されたが地域研究者によって1960年頃発掘されて、その豪族ぶりが判明した。今も子孫は近野町に残っておられるし、日本画家・詩人の野長瀬晩花氏など文化人がでておられると歩き仲間が言う。
どの世にも栄枯盛衰あり。庶民は気楽なもの、有難い。

2015年6月5日    
上村 サト子    

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