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熊野参詣道中辺路第3回 その1
"牛馬童子像"は何故 シンボル的存在に



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 月1回4時間も掛けて同じ道を往復するのは効率が悪いと感じながら、別に飽きたとは思わない。
却って日本の四季の変化に有難さを自慢したい。3月にスタートした時は寒くて、木々の芽は硬く梅の花を愛でていたのに、5月18日、今や新芽も濃緑になってきた。
今回のハイライトは10年前世界遺産に登録された時からポスターにテレビに雑誌にあらゆる処に出てきた牛馬童子の像である。
バス停から最適のハイキング道を歩き始める。やっとこの像に逢う事が出来た。
意外に小さいが、それが却って可愛らしさが増し人気を得たのか。中辺路を通って那智で3年修業された花山法皇が牛と馬に乗っている姿をイメージして明治の末頃作られた。
17歳で即位しながら、親族や藤原一族の陰謀によって2年足らずで退位させられ、出家したが、その後も自由奔放な貴族生活を続けたらしい。
熊野詣も退位してからお供を連れて行った。法皇一行がこの箸折峠で昼食をとった際、茅(かや)の枝を折って箸に使おうとしたら、赤い木汁がでたので、「これは血か露か?」とたずねられて、近露と言われるようになったとか、箸折峠という名が生まれたとか語り部が語る。
沢山の法皇・貴族が何度も(後白河上皇に至っては34回)熊野詣をしたのに、1回しか行かなかった花山法皇の伝説があちこちに残るのは日本人の判官贔屓だろうか。とにかく政治や市民の生活はどうなっていたのか察しが付かない。

2015年6月5日    
上村 サト子    

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