熊野三千六百峰と呼ばれると、参詣者や修験者には深遠さと有難さが増し、その先の熊野大社三山詣でに励みが出た事であろう。貴族、皇族や庶民に到るまで京都を出発して、この世の悩みと極楽浄土への願いを込め、数多くの王子社で禊や奉納をして、遂に紀伊田辺から東の山中に向ったのが中辺路参詣道である。他に紀伊田辺よりさらに海岸線を南に下り、串本や勝浦から北に行く大辺路、伊勢からの伊勢路などの参詣道が平安時代より盛んであった。当時蟻の熊野詣でと呼ばれたぐらいだったらしい。私達、信心は二の次にして、まずは歩く事で健康を願う現代の蟻の熊野詣でだ。
今回私達は2回目、栗栖川バス停で下車した。バスが紀伊田辺より山中に入ると川原の修復工事が目に着く。語り部に尋ねると、4年前の大災害のものと答え、さらに指さす先に山頂からの山崩れが見える。まずは準備運動をして、生活道を30分歩きの説明ながら前回立ち寄った霧の里休憩所まで結構な登り道を行く。休憩所に手作り弁当でおなじみのおばさんが自動車で弁当と味噌汁を届けて下さる。まさにその名の通り、目はり寿司、山菜ちらし、イタドリ煮付けなどの美味しい弁当でみんなやる気満々。歩きはじめると早速旅籠街道と呼ばる数軒旧旅籠名の木立札のある道を歩く。旅籠と云っても農家程度の大きさだが、古道で始めて先人の宿泊した場所に出くわした。何の不自由もない都人がひたすら歩き、ここまで辿り着いてほっとした様子が思い浮かぶ。それこそ旅籠の人達の"おもてなし"が嬉しかっただろう。
私達もただひたすら歩いた。村のはずれを示す庚申さんと大日如来が同居している祠→一里塚→高原池→大門王子跡→十丈王子跡→小判地蔵→悪四郎屋敷跡→上多和屋敷跡→山体月の伝説地標識分離点→大坂本王子跡→牛馬童子ふれあいパーキングと巡るなか、語り部さんは熱心にそのいわれを説明して下さる。毎回語り部さんとお別れする時、またお会いしたいと思うのは本当に熊野を愛する心が伝わってくるからだろう。今日のコースは10.5キロ、帰宅時万歩計は2万5千歩になっていた。
2015年5月16日
上村 サト子
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