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熊野参詣道中辺路(T)その一
「先人、禊をしての参詣の入口・滝尻王子」



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 特に平安時代後期から江戸時代にかけて本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰が盛んになり、上皇・貴族から庶民に至るまで、多くの人々が熊野に参詣した。京都から淀川を舟で窪津王子(現在の天満橋)まで下り、泉南を歩いて各王子を詣り、和歌山を過ぎて田辺からいよいよ三山に向けてお山に入り込むのが中辺路といわれる。王子とは熊野権現の御子神を祀る分社の事で、笛・太鼓や和歌、経典の奉納や水で体を清め、寄進事などの禊をしたり、宿舎にもした。九十九王子と呼ばれたが、沢山あるという意味の通り泉南にくまなく王子が連なっていた。山間部にある王子の中でも貴族から特に敬われた五体王子の一つ、滝尻王子から私達はスタートした。駐車場には5台のバスが停まっているので、古来、熊野の蟻詣でといわれたが、私達は平成の蟻の1匹である。
 到着頃に雨となり、昼食はバスの中で滝尻茶屋の手作りの弁当と暖かい味噌汁を戴く。対岸の熊野古道センターでポスターや民芸品を見て、熊野中辺路の概要を知る。その横の先人達が身を清めた川を渡り、参詣道の登り口にある滝尻王子宮で今日1日の安全を祈る。その前には、山頂に今は残って居ない不寝(ネズ)王子宮にあった傘燈籠と後鳥羽上皇の歌碑がある。上皇の、生涯28回も熊野詣でをしながらも王政復古ならず、隠岐島に流された思いを汲んで、氏子と篤志家が建立した。苦しければ苦しいほど穢れや罪がぬぐわれ、来世の極楽浄土への願いが込められて、付き人2〜300人もいた参詣御幸の罪深い事。登り始めに米(べい)松(まつ)の大樹が道にはみ出している。日本の松は松葉が2葉で、この松は3葉である。日本に自生していないと云うのに、なぜここにあるのか、そこが知りたい。

2015年4月28日    
上村 サト子    

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