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東京山の手ぶらある記
"降りかかる塵は落とさず"



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 以前東京下町ぶらある記と題して庶民的な街中を紹介したが、今回は旧家の名残りと最高学府の一部をを味わったので、東京山の手ぶらある記と称しょう。京王線駒場東大前で降り、日本民藝館に向う。
大正・昭和にかけて、思想家・柳宗悦(やなぎむねよし)が生活の中に美があることを提唱し、民藝運動を河井寛次郎・濱田庄司・大原孫三郎等と共にした。柳氏が収集した膨大な伝統的工芸品を展示する為に日本民藝館は1926年に創設された。外観は武家屋敷のようにどっしりとした構えの建物である。内部には陶磁器・絵画・木漆・染織・書など日本のみならず中国、韓国、東南アジアからの収集品がある。驚いたのは6世紀頃の中国の皇帝が愛用の書として、壁に掲げていたという見事な紙托本の書である。1字が畳半畳ぐらいで4字熟語のよう、まさに畳2枚並べた程に大きい。中国でも今は残って居ない貴重品らしい。また蓮如・一遍上人が書いた南無阿弥陀仏の字の優しさに民衆は手を合わせたであろうと思い起こす長大色紙もある。道路を隔てた西館は柳家の旧宅で、入口は栃木から移築した長屋門。敷居を跨ぐだけで屋敷の大きさが察せられる。西館にも当時の生活の中の美術品を展示してある。家系をたどればさぞかし皇族・貴族・豪商の名が連なるのであろう。
 次に向ったのは鉄扉のある都立駒場公園である。この敷地は戦前加賀藩前田邸の敷地であり、今は東京都の管理で緑多い公園の中に旧前田邸の洋館、和館と近代文学館がある。
旧前田家は明治以降侯爵として、また軍人将校でもあった。16代当主はヨーロッパで外交官も務め、西洋の生活に馴れていたので、生活の場として洋館を建て、外国人を接待するため和館も建てられた。本来は江戸時代から武家屋敷が本郷にあったが、駒場農学校(後の帝大農学部)と土地交換して1929年に移った。しかし第二次大戦中、ご当主がボルネオで不慮の死を遂げ、この邸宅は一時企業に売り渡されたり、GHQの官邸になっていたが、現在東京都の所有になっている。当時東洋一と言われただけあって、玄関・食堂・寝室・階段・欄干・暖炉等全てに渋さと重厚さを持った西洋のお城のようである。ここもさぞかし名家からの客が華やかに集った事であろう。和館の修復は2年先とか、次の機会が楽しみ。今もひとつ場違いのように公園の中に大きな灯籠があるが前田家の名残りか。この駒場一体がお屋敷の庭園であっただろう。名残りと言えば、場所は違うが本卿の東大の赤門も前田邸江戸屋敷の正門を移築したらしい。東大駒場キャンパスの門前で、降りかかる塵・埃をひとつも落とさず、ご利益を頂こうとこの町をそっと抜けた。

2015年2月3日    
上村 サト子    

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