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東京下町ぶらある記 その2


東京下町ぶらある記 その1
"正岡子規庵・中村不折(ふせつ)書道博物館界隈



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 東京山手線周辺には江戸の名残りの屋敷跡、名所旧跡や公共施設が山ほどある。大名や家来の敷地が広かったので、維新以降転用された由縁である。その周辺が庶民の生活地帯となり、下町風情が残っているのであろう。実に多くの人が庶民生活を楽しんでいる。
 まずは山手線鶯谷駅から歩くこと5分、駅の反対に行けば上野公園のある地域であるが、書道博物館を探すつもりが、普通の狭い路地を歩いていると、普通の門構えの表札に"子規庵保存会"と書いてある。こんな所に子規の終焉の地となった庵があるとは思ってもみなかったので、驚いた。書道博物館はさておき、早速入って見る。俳句に素人の私でも知っている正岡子規の一生はNHKドラマ"坂の上の雲"でさらに関心があった。明治維新の動乱時に生き、明治35年9月、34歳11ヶ月、この家で没した。短い一生の間に短歌・俳句の近代化に勉め、自身新聞記者でもあり、多くの文人、俳人、画家、歌人などと巾広く交流し、文学全般に素晴らしい業績を残した。まさにこの八畳二間に寝床を置き、錚々たる文人が集い、句会をした様子も絵に残されている。(現在国会図書館に保存)結核性カリエスで曲がらなくなった足の膝が邪魔しないように四角く切り込んだ机も痛々しい。玄関の硝子戸に子規の食欲を示す献立が並べられているが、量と品数はすごい。それでも病魔に勝てなかった。小庭には子規が見た草花が所狭しと植えられ、生前それらを眺め沢山の俳句や短歌を詠み、空を見、社会をみていたのだろう。
 次に斜め向かいの書道博物館に入ると、この地を終生の住処とした中村不折(ふせつ)と子規が蜜接な関係にあった事にまた驚いた。明治28年子規が日清戦争の従軍新聞記者として遼東半島に赴任した際、中村が画家として同行したり、新聞にイラスト挿絵を子規の勧めで描き、採用され、その後当たり前に私達は新聞に挿絵を見る事になったと云う。中村画伯はその後フランスに4年間留学し、絵画を本格的に勉強し作品を残した。それ以上に中国を中心にした漢字の歴史を研究し、石碑・墓標・青銅器・書道文具など他にないような貴重な物品の収集に努め、彼自身の絵画・書道作品と共にこの博物館に展示されている。私には書道関係や絵画は良かったが、中国の古い物品は地味で理解出来なかった。
 この1日は新幹線品川駅から始まって、浜松町でのスマートなビジネスマンを見て、この鶯谷の庶民っぽい大衆食堂で昼食のあと、100mも付き添って近道を教えてくれる店員さんにこの街の親しみを感じた。大阪のおばちゃんにはやはりこの方が相に合っている。

2014年12月6日    
上村 サト子    

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