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熊野古道伊勢路 第7回
個人の活動で世界遺産登録へ貢献・曽根次郎太郎坂



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 4月から始まったこのコースもまだ尾鷲市の山中を歩いている。
今日も晴天、運が良い。どこのコースでも熊野古道に誇りを持つ語り部に会えるのも旅の楽しみの一つ。
今回もきびきびした男女の2人が43人を率いてくれる。紀伊半島の海岸線を走る紀勢本線賀田駅より直ぐ、熊野古道の標識にある"曽根次郎太郎坂甫母(ほぼ)峠"山道に入る。室町時代、山賊や海賊に困り果てた村民は近江の武将曽根氏に治安を頼んだところ、無事依頼に答えられるものとなり、人望も厚く、曽根弾正の名をもらい、墓もはっきりと今に残る。次郎は自分の領地、太郎は他人の領地がなまって坂の名前が付いた。
登り口に入ると語り部はこの道は平成7−8年頃個人の努力で切り開かれ、世界遺産になったと大川氏夫妻を讃える。地元の古道整備をサイドワークとするこの人は、このあたりも蔦と土とシダ類で全く跡かたもなく埋もれていたのを執念で探し当て、個人で掘り返して道が再現したそうだ。
 登り口から美しい石畳と猪垣(ししがき)が続く。東紀州の住民は猪や鹿の侵入を防ぐ事が生活を守る大切な手段であった。山道から少し入った所に石切り場の跡がある。江戸城の石垣に紀州藩から運ばれたと細川藩の記録にあると言う。山道を歩いていると時々雷の様な轟音が聞こえる。石材を船に積み込む音らしい。
今でも紀州は木材と石材の産地だ。雨の多い山道を守る石畳の石材も山中に多くあったのが幸いした事だろう。鯨岩や丸や角の大岩、奇岩が見られる。
 やがて305mの甫母(ほぼ)峠に到着。今の尾鷲市と熊野市の市境である。ほうじ茶屋があった所だが敷石10m程の長さが残っており、当時大きな茶屋であった事が察しられる。横にあるお地蔵様が祠から私達を優しく眺めておられる。昔の旅人はこれまでの厳しい旅をここまでやってきた事への感謝、これからの第一番札所青願渡寺までの旅の安全をさぞかし心を込めて祈った事であろう。その願いの叶わなかった行き倒れの巡礼者の供養碑が道の途中に佇んでいる。
 さらに石畳の登り坂を越えて尾根に出ると美しい海が見える。半島を越えた先の二木島湾である。湾の中にある四角いエリが近幾大学のマグロ養魚場だそうだ。現代人の心の憩いと食の充足と住の趣は熊野にありとなろうか。猪垣は登り口から最終地点まで比較的良く残っている。その終わりに寛保元年(1741年)猪垣工事終了の石碑がある。その近くに猪の落とし穴があり、この古道を発掘した大川氏も落ち、ほうほうの体で這いあがったと言う。語り部が終始この大川氏の功績を話されるので、帰宅してネットで見た。古道を愛し、整備に実に貢献した人で今も語り部もされている様子。立派な方だ。
 今回も途中体調の悪くなった女性がでて、一人の語り部と添乗員が残り遅れて下山。私達が自動車道まで降りてきた時、救急車と消防車の隊員4−5名が担架の組み立て準備をしていた。1キロ手前くらいまで降りてきた女性を迎えに行ってくれるらしい。あの細い滑りやすい坂道をどうして降りてくるのだろうかと心配する。図らずもこの紀行文を書いている間に、御嶽山の噴火ニュースが入り、先日の救急隊員の救助活動と重なり、有難さが倍増した。

2014年10月3日    
上村 サト子    

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