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近代国家成立と熊野古道の盛衰
〜その(二)〜
始神峠の江戸道と明治道



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 はじかみ峠と読む。昔は山椒の椒(はじかみ)峠と書いたらしい。
参詣者にとって前のツヅラト峠に次ぐピリリと辛い峠であったらしい。今回は参加者の足取りも考えて、熊野方向とは逆に少し西の紀伊長島の国道42号より入った所から伊勢に向って歩き出した。明治中期に造られた明治道(めいじみち)と言う。この道は約2メートルほどあり、途中までじゃりがひかれて、大砲も通れるようにとの目的の道幅である。明治20年代から各地に人工溜め池も造られ、農業政策を進めた。里山の村に入るや農家のおばさんが"いってらっしゃ〜い"と声を掛けてくれる。10匹あまりのこいのぼりが早々と空になびいているが、私達のために吊ってくれたとか、おばさんのおもてなし(・・・・・)である。
 今回の日程は4月11日、前回より3週間経っているので山模様は明らかに変化をみせている。道脇からゆずりはの新芽が顔を出す。新芽が成長し始めてから旧葉が落ちるので子孫繁栄の縁起の良い木と愛でられる。足元のお茶の様な背丈の木を天台烏薬(てんだいうやく)と教えてもらった。薬草に詳しかった徳川吉宗公が不老長寿の妙薬として大事にしたらしい。5弁の葉が星の形をしている那智シダは那智の滝の傍で見つかったとか。
 海抜147mの始神峠の手前で私達の登って来た明治道と江戸道(えどみち)が合流する。確かにこの道を登ってくるのは大変だっただろうと安堵した。峠の展望台からの眺めは見事である。熊野灘に浮かぶ島々が見える景観は東北の松島に引けを取らないと紀伊松島と呼ばれている。江戸時代全国各地を旅行した越後のちりめん問屋の主人の鈴木牧之(ぼくし)がこの道を歩いたと看板に説明がある。この人の記念館が新潟県にあるらしく、商売も紀行文も絵画、俳句にも秀でていたらしい。滝沢馬琴や十返舎一九と交流があり、南総里見八犬伝の挿絵も手掛けたと云う。詠んだ俳句の一つに"まちかねて鶯なくや日のでしほ"とあるが、図らずも私達も季節がら鶯の拙い歌声を聴いた。眼下には水力発電の宮川第二発電所が見下ろせる。下りの江戸道は比較的楽であった。ここは気象情報で良く聞く尾鷲に近い所、まさに豪雨地帯で、途中には石組みされた"洗いごし"と呼ばれる水の逃げ道が残っている。山を守る人間の知恵である。先ほど頂上から見た発電所の横を通ってスタート地点に戻ってきた。この江戸道は平成10年頃村の人に見つけられ、丁寧に江戸時代の風情に戻された。まさにこの地方に残る言葉として"道が死ぬ"と言う言葉があるとか、村の人達の努力で"道が生きる"状況に戻されたのだ。水力発電所も原子力発電所に負けず頑張ってほしいと願って家路についた。

2014年4月20日    
上村 サト子    


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