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“ 3月 わがまち紹介千里に思う ”

 約35年前に、わが家は、現在の高槻市松が丘に家を建て、夫の両親と隣同士の生活スタートの半年後に名古屋転勤となりました。
名古屋での約7年の転勤生活の後40歳の時、高槻市には、戻らずマンション暮らしが家族4人とも気に入り、千里ニュータウンにマンションを購入、18年間、娘二人が嫁ぎ、夫の定年になるまで、今回のわがまち紹介の出発地の、北大阪急行の桃山台駅と千里中央、そして阪急南千里駅のちょうど三角地点の地域、千里ニュータウンの中に在りながら、住所は上新田(資料に春日は下新田村の紹介がありますが)その上(かみ)なので、上新田村と言われる地域です。
 大阪万博が開催され、千里の丘陵地帯は、ニュータウンとして大開発が進む中で、新田地域は、大地主、豪農と言われる人々の屋敷が並ぶ小さいながら、江戸、明治からの風情風格を残す特別な地域(多分莫大な土地財産の所有者の)であり、その地域の居住者たちの猛反対の中、千里ニュータウンの中、地図上もそこだけ線で区分された地域として、現在に至ったと聞いています。
私たちが、帰阪した時代は、その地主の世代が少しずつ変化し、団地(公団の建物)は8階までの規制の中、上新田地域には、14〜5階の(当時はそれが住居としての高層マンションのはしりでした)が、建ち始めたものの、マンションの周辺は、まるで桃源郷と表現できるほど、竹林、桃の花、畑とのどかで、季節季節に、手拭いをかぶった小父さんや小母さんから、採れたての野菜や生で食べられるほど甘くて新鮮な筍を朝の散歩のついでに何年も買い続けていました。が、ある時、その人たちの家は玄関だけで、我が家のマンション全部の広さの豪邸(息子に新築している人もあったり)と知り、仰天しました。
 それから、わずか10年余り経た、現在は、その地域には、もはや竹林も畑も何もなく、 より高い高層のマンションが林立し、千里ニュータウン自身も30年の間に、建設当時から、これが日本かと思われるような、街のなかに、桃山公園を始め、中央公園、南公園などを始め、広い池を中心に大きな公園が何か所も作られ、四季の木々や花々や休憩のための工夫や遊歩道すでに計画的に整備され、その樹木が大きく成長した今は、住む人々の高齢化などの問題はあるものの、・・・・。
          2014年3月5日
記 伊坂 幸子   

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