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西への歴史街道
〜旧きを訪ね、新しきを知る〜
【その1 赤穂・日生編】



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 年末年始の自動車旅行となるとまず心配なのが高速道路の混み具合である。
今年は特に大連休となり、1月3日スタート、4日帰宅となると危険地帯に踏み入れるようなもの、私達は賭けをした。なぜなら正月1日、2日では施設の休園が多いからである。まずは高槻7時出発、宝塚付近の渋滞はいつものこと、赤穂大石神社に到着したのは9時半。まだ屋台が店開きをしていない。参道にある47義士の石像がずらりと並んでいる。その台座に寄進者の銘があるが殆ど同じ姓であることからみて、遺族がおられるのだろうか。おみくじは大吉とでて縁起が良い。鳥居をくぐると、1本彫の見事な大黒天が参拝者に福を与えようとばかり睨みを効かしている。ご利益を頂こうと頭と膝と腰をさする。
 この神社の周辺には播州赤穂の城址跡・大石良雄宅跡長屋門・菩提寺の花岳寺・萱野三平の立ち寄った息継ぎの井戸などがあり、整然とした街並みが広がっている。十数年前に来た頃より赤穂市は歴史検証がなされ、観光客の関心をそそられる。大石神社を出るころ、渋滞で早く来て良かったと胸を撫で下ろした。ここから西に30分も走ると日生の漁港に着く。お造りよし、街起こしの"カキオコ"(牡蠣のお好み焼き)もよし、お薦めします。
 夢枕獏氏の釣り小説の中に浅野事件を描写している。時は元禄14年(1701)3月14日、毎年京都から訪れる勅使の接待役に選ばれた浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で指南役の吉良上野介義央に突然狂気のごとく斬り付けた。その事件から47義士の討ち入りを後年浄瑠璃や歌舞伎に誇張されてかかれているのでよく知られている。事実江戸の街中では判官贔屓の日本人体質か、討ち入りを今か今かと待つ気風があったという。
 当時将軍は生類憐みの令を出した5代綱吉で、64歳はしかで死去した。死後江戸中野で保護されていた何万頭の犬が解放され、魚釣りや釣った魚も食べる事を(も)許された。この最悪の法令は釣りに到るまでどんな生き物の命を絶ってはいけない。違反した者は厳罰に処すということで万人を超える人間が罪人にされ、命を落したり、遠島、獄中生活を強いられた。この悪令に不満が溜まっていたのもこの事件を正当化する面があったらしい。播州浅野家は5万石、吉良家は4千石強、勅使を接待するには多額の費用が要り、小藩では出来ないので約3万石以上の大藩に出費を順に割り当てていた。その一部が儀礼指導料として吉良氏にまわっていたが、この度浅野氏は2度目であり吉良氏から指南を受けなかったから、通常1,200両から指南料を差し引いて700両を渡した事で吉良氏の感情を害して、接待日事前に叱陀(失詑を訂正)の席があったという。尚浅野氏に当日切腹の刑を言い渡され、言い訳する場も与えられず、吉良氏にお咎めがなかったという事で討ち入りになったらしい。
 いつの時代も"おもてなし" も"動物愛護"も人間の裏表があるようです。
さらに政治とカネが絡んでいるとは・・・・。

2014-1-20    
上村 サト子   


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