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"いつまでも命輝いて"

 宮之川原の貸農園で殆ど毎日お見かけする老人がおられる。大正8年生れの94歳のNさんといい、自転車か手押し車で自宅と畑を行き来して、一人約10坪の菜園を楽しんでおられる。このNさんからお聞きした戦争体験は貴重なもので皆様にもこの感動をお伝えします。

 Nさんは昭和15年1月10日20歳で野砲兵として大阪にて入営、御堂筋のお寺に1週間留め置かれ、行先も告げられず、大阪港から出航した。渡された防寒帽からして寒い所に行かされるのかと懸念していたが、聞くに聞けず貨物船の船倉に送り込まれた。みんなくたくたに船酔いした末、天津近くの塘沽(タンクー)に上陸した。その後万里の長城近くの張家口で半年間砲兵初年兵として革靴・火薬・脱ガス等の訓練をうけた。懸念していた通り、大阪から来た者にとって寒い所であった。
 その年の8月編成隊が組まれ、第2旅団に6カ月属し、北京近くで初年兵の教育係となった。砲兵隊は観測、馬係、通信等に分かれ、テッチン、大砲、ラッパ係もいた。 Nさんの思い出多いのは蹄鉄工兵修業から第63師団病馬廠に転属となり、馬との付き合いが楽しかったと、一番怖かったのは八路軍(華北で活動した中国共産党革命軍)が畑の中から突然鉄砲を打ってきたとき、まさに頭の上を弾がかすめた時だったとか。すでに支那事変(日中戦争の日本側の呼称)真っ只中、大東亜戦争(太平洋戦争の日本側の公称)の勃発でいよいよ戦場化としていった。Nさんの所属する第63師団は北京・保定など移動したが、昭和20年連合軍による本土決戦の報が伝わり、5年以上の者が本土を守る為と呼び戻された。海上では下駄足飛行機に守られ、山海関国境から韓国釜山経由で宇都宮に着いたのも束の間、再度の召集で8月和歌山に到着した翌日終戦を迎えたそうだ。
 命を的に6年間生きてこられたNさんは誰よりも命の大切さを感じておられる事だろう。Nさんの菜園はどこよりも輝いている。明日もまたお会いできるようにと願って、帰りの挨拶をする私も終戦間際の戦災で何もかもなくし家族の命だけが残った一人です。


P.S. 後日菜園で軍隊手帳(牒)を見せて頂いた。この1冊にNさんの6年間の人生が詰まっているのかと思うと神々しく私の手の上にのった。表紙を開けば勅諭(・ ・)の題字のあとー我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所・・・−と延々続く。このことばにどれだけ頭を下げ、命を捧げると教えられ不幸に泣いた人の多かった事か。Nさんも"戦争はいかん"とつぶやかれる。私もあらためて平和の尊さを次世代にこの拙文で伝えていきたい。

2013-10-21   
S.U