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「源氏物語の花紅葉と城南離宮の月」を受講して

 中秋の名月の日、9月19日(旧暦8月15日)に京都城南宮において、表題の講演会があり受講しました。講師は京都橘大学文学部教授,福嶋昭治先生でした。
 源氏物語の中では,帝が位の低い更衣、「桐壺」から生まれた源氏をかわいがり、「桐壺」に似ているという「藤壷」のところへいつも連れて行っていました。それが後に源氏と藤壷との不倫にいたるもととなるのですが、亡き母に似ているという桐壺に惹かれてゆく幼い源氏の気持ちや、桐壺を亡くした帝が藤壺に慰められる気持ちなど、ユーモアを交えて面白く話してくださいました。
 「城南宮離宮の月」では、鳥羽上皇の逸話などが紹介されました。
 鳥羽天皇は堀河天皇の皇子でしたが、早くに父を亡くし、5歳で即位し、白河上皇に育てられました。政務は白河上皇が執りました。白河が亡くなると鳥羽天皇が政治の実権を握りました。当時政治の実権を掌握していたのは藤原氏でしたが、これを排除しようと崇徳天皇に譲位し、以後崇徳、近衛、後白河の三代に亘って院政を敷き政治の実権を28年間握り続けました。
 鳥羽離宮は180万平方メートルの敷地があり、鴨川と桂川の合流地点で交通の要衝で貴族の別荘が集まり、市が立つなど賑わいました。離宮では再々宴などが催されました。
 寛治8年(1094)8月15日、鳥羽殿観月の宴で詠まれた歌は

いけみずにこよひの月をうつしもて
こころのままにわが物と見る
     白河院

照る月の岩間の水にやどらずは
玉ゐる数をいかでしらまし
      大納言経信

のどかなる光をそへて池水に
ちよもすむべき秋の夜の月
      権中納言俊忠

 白河院の歌は、実は女房堀河殿の歌でしたが院が,「お前の歌として発表するよりも、私の歌とした方がふさわしい」といわれて、御製となったと、平安末期の歌論「袋草紙」に記されています。これは藤原道長の「この世をばわが世とぞ思う望月の」と歌った気持にも似て、権力を一手にし、優雅な城南宮の観月の宴に望む自分にこそふさわしい歌という上皇の気概に溢れたゆえのことだったのでしょう。「袋草紙」には「内々ニ今日和歌イカカト御尋之処申此歌、巳秀逸歌也、仍仰云,汝歌ニ不似合、可為我歌トテ御収公云々」とあります。
また後年、後鳥羽院が(1340年)同じく鳥羽殿の観月の宴で

いにしへも心のままに見し月の
あとをたづぬる秋のいけ水
     と詠まれています。

後鳥羽上皇が白河上皇の気概を重ね合わせておられるということでした。
 午後4時からの講演で終わったときはまだ明るく月は出ていませんでした。帰って自宅で雲ひとつない煌々たる月を仰いで遠く平安の昔に思いを馳せました。
      2013年10月3日
記 牧戸富美子   

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