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”少年Hを観て思う事”

 水谷豊・伊藤蘭夫妻が名実ともに夫婦として出演すると前評判の高かった妹尾河童原作の映画を観に行った。
 戦災の経験のある私には「戦争」という悲劇をあの時代に生きた全ての人と共有感を持ちたいと主人を誘ったが夫々違った経験をした者には押しつけるものではないらしく、結局私一人の観劇であった。
 原作を読んだ時の自然に出てくる笑いを思い出したが、さすが映画化されると少年Hの一家を中心としてさらにストーリーの起伏が大きく表現されていた。終戦時私は5才だったので、ほんの少し憶えているだけだがこんなユーモアと勇気が出るものばかりではなかった。まず何より「生」への戦いである。
 其の頃住んでいたのは京阪片町線のすぐ近くだった。昭和19年6月の日中、空が真っ黒になるくらい米軍B29の襲撃で防空壕の中では耐えられず、桜宮公園に逃げるよう指示が出て、母は私を背におぶって夏蒲団をかぶって走った。けれども敵軍によく見えすぎると注意を受け布団を捨てて逃げ、さらに桜宮小学校で夜を過ごし、翌朝戻って見ると我が家があった筈の周辺はまさに映画と同様のシーンだった。何もない。私の父は昭和19年に肺炎で亡くなったが、母は落ち込んではいられない。毎日の食料確保のため三田の奥まで国鉄で出かけ、食料統制が厳しくなり大阪駅で検閲に合い没収される。その手前の塚本付近で調達物を汽車の窓から放り投げ直ぐに戻って集めに行ったそうである。命をかけて手に入れた大切な食料も家と共に灰と化していた。
学童疎開に石川県に行っていた姉二人と9月に軍隊へ入営が決まっていた兄と祖父の家族5人が尼崎の叔母の家にどうして行きついたか憶えていない。でも空から焼夷弾が落ちてくる様は毒々しく、(撮影には花火を使ったか)稲妻のようなものではなかった事や孫のおむつを取りに戻ったおばあさんがまさに全身やけどで戦火の中家族であろうか自転車で医者を探して走りまわっていた姿は憶えている。桜宮小学校での夜の怖さを思い出すと小学校を卒業するまでそのトラウマに悩まされた。映画の少年Hの家族が新しい第一歩を踏み出していく事をまさに予感させる看板描きとミシンの再生であった。私達にも周りの助けがあったからこそ命が守れて私の今がある事に感謝しなければならないとあらためてこの映画が教えてくれた。
 台風一過の美しい夕日の輝く空をプラットホームから見た。カメラを背中のリュックから取り出したくなった素晴らしい景色であった。少年HもAlways3丁目の夕日のメンバーも同じ気持ちではなかっただろうかと思ったのは映画好きの私の過剰な感傷だろうか。
また安全な翌日がやってくるだろうと確信して我が家へと急いだ。

2013年9月29日   
上村 サト子    


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